作品詳細
- Title:紫陽花双鶏図 Ajisai Sokei-zu(Hydrangeas and Pair of Chickens)
- Dimensions:140.0×85.0cm
- Medium:絹本着色 一幅
- Collection:プライス・コレクション
作品解説
若冲が弟の宗厳に家督を譲って画家として生涯を過ごすことを決意したのが宝暦5年(1755)、40歳のとき。≪動植綵絵≫30幅の制作に取りかかったのが、宝暦7年頃のことと考えられるので、であれば、若冲が家業の責任から解放された歓びに満ちて≪月梅図≫、≪虎図≫(エツコ&ジョー・プライスコレクション)、≪旭日鳳凰図≫を描いてから、わずか2年後ということになる。
このわずかの期間に、若冲は≪雪中遊禽図≫、≪枯木鷲猿図≫、≪雪芦鴛鴦図≫、そしてこの≪紫陽花双鶏図≫などの絹本著色画の傑作群を次々と描きあげたのである。絵画技法を学び、さらに中国画の模写を営々と続け、たゆまぬ自然観察をもとに、その財力を活かして最高の材料を駆使した作品のいずれもが、驚嘆するほかない出来映えを示す。
この当時はまだ≪動植綵絵≫と名づけられていない作品群(大典は「花鳥三十幅」というのみ)のうち、もっとも早く描かれたのは、「芍薬群蝶図」と考えられている。そして「芍薬群蝶図」にほどこされた署名は、「平安城若冲居士藤汝鈞画於錦街陋室」という全16字に及ぶ長いものであるが、右に挙げた4点の作品の署名が、いずれもそれと同一であることは、疑うべくもなく単なる偶然ではない。これらの作品を制作することによって昂められたモチベーションを保ちながら、若冲は「芍薬群蝶図」へと、そして「花鳥三十幅」へと文字どおりなだれ込んでいったのである。
本図と≪動植綵絵≫中の「紫陽花双鶏図」とでは、紫陽花の表現においてかなり異なるというべきであろう。本図の方により初発性が認められる。
本図は、≪雪中遊禽図≫とともに東本願寺に伝来した。当時の門跡であった光遍上人の依頼のもとに描かれたと考えてよい。禅家のみならず宗派を超えて、若冲画の新しさに心震わせるひとたちがいたのである。
このわずかの期間に、若冲は≪雪中遊禽図≫、≪枯木鷲猿図≫、≪雪芦鴛鴦図≫、そしてこの≪紫陽花双鶏図≫などの絹本著色画の傑作群を次々と描きあげたのである。絵画技法を学び、さらに中国画の模写を営々と続け、たゆまぬ自然観察をもとに、その財力を活かして最高の材料を駆使した作品のいずれもが、驚嘆するほかない出来映えを示す。
この当時はまだ≪動植綵絵≫と名づけられていない作品群(大典は「花鳥三十幅」というのみ)のうち、もっとも早く描かれたのは、「芍薬群蝶図」と考えられている。そして「芍薬群蝶図」にほどこされた署名は、「平安城若冲居士藤汝鈞画於錦街陋室」という全16字に及ぶ長いものであるが、右に挙げた4点の作品の署名が、いずれもそれと同一であることは、疑うべくもなく単なる偶然ではない。これらの作品を制作することによって昂められたモチベーションを保ちながら、若冲は「芍薬群蝶図」へと、そして「花鳥三十幅」へと文字どおりなだれ込んでいったのである。
本図と≪動植綵絵≫中の「紫陽花双鶏図」とでは、紫陽花の表現においてかなり異なるというべきであろう。本図の方により初発性が認められる。
本図は、≪雪中遊禽図≫とともに東本願寺に伝来した。当時の門跡であった光遍上人の依頼のもとに描かれたと考えてよい。禅家のみならず宗派を超えて、若冲画の新しさに心震わせるひとたちがいたのである。
『若冲ワンダフルワールド』