伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)の生涯 Biography

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伊藤若冲の人物像


  • 生家の伊藤家は問屋のほかに不動産収入もあり、生活には余裕がありました。
  • 20代の終わり頃から絵を描きはじめ、狩野派を学び、中国画の模写に取り組みました。その後、即物写生のために鶏を飼い、数年間写生します。
  • 40歳で弟に家督を譲って画業に専念できるようになり、相国寺の住職である大典顕常や売茶翁と親しくなります。
  • 大典の残した「藤景和画記」によると、若冲は学問も商家の旦那衆のたしなむ芸事もできず、酒も飲まず、生涯妻帯しませんでした。
  • 花鳥画を名のあるところに納めて後世の理解を待ちたいという思いから、『動植綵絵』三十幅を相国寺に寄進します。
  • 還暦を迎えた頃から、石峰寺に五百羅漢を布置するための資金作りに、墨絵を描くようになります。
  • 晩年期、石摺り風の墨絵や画面上にマス目をつくるモザイク画のような作品など、さらに独自の境地を拓きました。

芙蓉双鶏図-002

年表

  • 正徳6(1716)年 京都高倉錦小路の青物問屋「桝屋(通称、枡源)」3代目伊藤源左衛門(宗清)の長男として生まれる。
  • 元文3年(1738年) 父・宗清が42歳で亡くなり、源左衛門を襲名し、家業を継ぐ。
  • 宝暦5年(1755年) 家督を3歳下の弟・白歳(宗巌)に譲り、名も「茂右衛門」と改めて隠居する。
  • 宝暦8年(1758年) 『動植綵絵』を描き始める。
  • 宝暦9年(1759年) 鹿苑寺より依頼を受けて、大書院の障壁画を制作する。
  • 宝暦10年(1760年) 『動植綵絵』に感銘を受けた売茶翁から「丹青活手妙通神」の一行書を贈られる。この賛辞に感激した若冲は、七字句をそのまま印章に彫って使用した。
  • 明和元年(1764年) 金刀比羅宮、奥書院の障壁画を制作する。
  • 明和2年(1765年) 『釈迦三尊像』3幅、『動植綵絵』24幅を相国寺に寄進する。相国寺と永代供養の契約を結ぶ。
  • 明和7年(1770年) 『動植綵絵』30幅の寄進が完了する。
  • 明和8年(1771年) 年末から1773年まで高倉錦小路の青物市場の営業をめぐる争議に尽力する。
  • 安永5年(1776年) この頃から石峰寺の五百羅漢像に着手する。
  • 安永8年(1779年) 9月10日、母・清寿が80歳で死去。
  • 天明8年(1788年) 京都に大火(天明の大火)があり、相国寺、若冲の居宅が焼失する。
  • 寛政3年(1791年)頃 相国寺との永代供養の契約を解除し、石峰寺門前に移る。
  • 寛政12年(1800年) 9月10日死去。享年85歳。石峰寺に葬られる。戒名は「米斗翁若冲居士」。

伊藤若冲ゆかりの場所

「桝源」(伊藤若冲生家)跡

相国寺

宝蔵寺(伊藤家の菩提寺)

萬福寺

石峰寺

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