ちょうど軍艦島の写真をデジタル化している最中に、軍艦島が舞台のドラマ「海に眠るダイヤモンド」が始まった。
普段ドラマは見ないのだが、ちょうど軍艦島に興味が出てきていたこともあって、つられて見ている。
「軍艦島の生活<1952/1970>: 住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート」は、住宅学者西山夘三が1952年と1970年に端島を訪問調査した際の資料、論文から当時の住環境や住民の暮らしを描いている。
暴力的な強制労働の時代は終わり、労働条件や生活環境の改善が進められていた頃だ。1970年にはすでに全国的には石炭産業は斜陽化していたが、端島は優良鉱として存続していた。
軍艦島の歴史的区分
第1期 | 原始的採炭期 1810~1889年 |
端島における石炭の発見から露出炭の小規模な採炭の時代 | |
第2期 | 納屋制度期 1890~1914年 |
三菱による事業、本格的海底採炭、納屋制度による悲惨な暴力的労務管理の時代 | |
第3期 | 産業報国期 1914~1945年 |
戦争遂行に必要な最大採炭量追求のための直轄労務管理と朝鮮や中国からの強制労働の時代 | |
第4期 | 復興・近代化期 1945~1964年 |
石炭産業復興政策をベースにした採炭技術と労使関係の近代化、合理化、島内人口最大の時代 | |
第5期 | 石炭衰退・閉山期 1964~1974年 |
ガス火災事故による採掘中断とエネルギー転換政策を乗りこえて採掘を再開し、一時的に繁栄を謳歌し、そして突然の閉山を迎えた時代 | |
第6期 | 廃墟ブームと産業遺産期 1974年~ |
端島は無人に、企業から自治体所有に。立ち入り禁止になり風雨波浪により崩壊が進んだが、廃墟ブームをきっかけとして一部観光地として開放。 |
1952年の調査
人口
4701人の内訳
- 三菱以外(建設工事従事者、学校、店舗、役場など)…400~500人
- 三菱鉱業従業員…1837人(職員174人、労務1663人うち坑内夫1150人)
- 三菱鉱業従業員の家族…約2400人
坑内夫は三交代勤務
- 1番方…8時~16時
- 2番方…16時~24時
- 3番方…24時~7時
各番方を一週間交代でつとめる
住宅
17通りの型があり、代表的なものはA~Kの11通り
- ABC…3室以上、職員住宅
- DEFGH…2室。鉱員および労務者用住宅
- IJK…単室。鉱員および労務者用住宅
ABCは3.6~2.7帖/人、D以下は1.3~1.8帖/人
最もひどい例では6帖1室に9人
鉄筋コンクリート住宅はすでに老朽化しており、鉄筋のさび方が尋常でないことに西川は注目している。質の悪い骨材とコンクリートの施工、海水の浸蝕が原因ではないかと推察している。
また、端島での建設工事の難点として、下を採掘しているため、島全体が変形を起こしていること、建設工事の人夫を寝泊まりさせる十分な場所を島内に確保できないことをあげている。
給料
「ふつう600円」、「つめて働けば日に1000円とるものもいる」
寮費が食事こみで1ヶ月1500円なので、食べるだけなら3~4日働けばよかった。
1952年(昭和27年)の物価は、大卒男性事務系初任給10166円、映画観覧料70円、食パン1斤50円というので、現在の20~30分の1くらい?
一律ではなく、働きに応じて給金が決まっていた。
端島炭鉱の稼働率は悪く(65~75%)、三菱の悩みの種になっていた。単身者の割合は約半数で、単身者より家族持ちの方が稼働率が高いことはわかっていたが、住宅事情が厳しい端島では独身を多く採用せざるを得なかった。また、坑夫の流動も月30~50人と他の炭鉱に比べて非常に高かった。