【特別展】没後50年記念 川端龍子 ―超ド級の日本画―(山種美術館)

川端龍子 Kawabata  Ryushi 草の実
「草の実」部分 1931(昭和6)年

川端龍子、1885(明治18)年生まれ、1966(昭和41)年没で没後50年になります。

本名は昇太郎といい、和歌山市に生まれました。画家を志して白馬会や太平洋画会に所属し、結婚後生活のために1906(明治39)年漫画雑誌社「東京パック」に入社。その後、1908(明治41)年「国民新聞」に転職。ジャーナリスティックな感覚をこの時代に身に着けました。

1912(大正元)年、親友がアメリカへ行くことを聞き、一緒に行くことを決意。ボストン美術館の東洋部やピュヴィス・ド・シャヴァンヌの大壁画に感銘を受け、帰国後にはじめて日本画を手がけます。

1915(大正4)年院展に初入選し、1917(大正6)年美術院同人に推挙されますが、龍子の大きな絵は会場芸術という毀誉褒貶が半ばする言葉で論議を巻き起こします。

川端龍子 Kawabata Ryushi 土 soil
「土」部分 1919(大正8)年

そのほかの院内部のゴタゴタなどもあり、1928(昭和3)年ついに同人を脱退することになり、青龍社を旗揚げしました。

川端龍子 Kawabata Ryushi 鳴門 Naruto
「鳴門」部分 1929(昭和4)年
第1回青龍展の会場正面に飾られた記念すべき作品

芸術は本来自由なるものという芸術主義から在野の姿勢を貫き、紀元二千六百年奉祝会にも参加せず、政府が一方的に任命した芸術会員を辞任するなど上からの押しつけには抵抗したものの、満州経営は正しいと信じ、大陸策四部作等を発表するという一面もありました。

川端龍子 Kawabata Ryushi 香炉峰
「香炉峰」 1939(昭和24)年

第二次世界大戦の終戦間際に、B29が落とした爆弾により母屋が焼失したの際の光景を描くモチーフとして龍子が選んだのは野菜でした。

川端龍子 Kawabata Ryushi 爆弾散華
「爆弾散華」 1945(昭和20)年

終戦後も創作意欲は旺盛なままで、精力的に作品を発表し続けました。

川端龍子 Kawabata Ryushi 夢 dream
「夢」部分 1951(昭和26)年
平泉の中尊寺にある藤原氏のミイラ調査に触発されて描いた作品

龍子は1962(昭和37)年、自分の巨大な作品を展示するための記念館を、自らの設計で自宅の近くにつくりました。

山種美術館の展覧会は8月20日で終了してしまいましたが、こちらで11月3日~12月3日『没後50年特別展「龍子の生きざまを見よ!」 』が開催されるということなので、興味を持たれた方はぜひ。連続して開催されるので、出品作品が被ってないことを祈っています。