拷問シーンが苦手で、漫画もアニメも挫折しっぱなしだった『チ。 ―地球の運動について―』。
アニメが完結してから一気見したけど、既存のどの作品とも違っておもしろかった。
下のインタビューで作者の魚豊が言っているけど、この作品の主眼は思想であり哲学。
乱暴な言い方をすれば、地動説も教会も主張を展開するための道具立てに過ぎず、ほかのものでもよかったともいえる。
<チ。>原作者・魚豊「生きることは毎日の臨死体験」死を怖がっていることが唯一の作家性と語る
――死後の世界をどう想像していますか?
“無”です。人は死んだら“無”のところに行くと思っているし、でも、言ってみれば生きていることも“無”だと思っています。「北斗の拳」の「お前はもう死んでいる」ってまさに人生そのものというか、別にいつか死ぬのは確定していて、「もう死んでいる」までのタイムラグが人それぞれの寿命。生まれていることも“無”だし、長く生きられたとしてもそれはそれで“無”だし、子どもが生まれて、その子どもが子どもを産んで、「で?」って。そう考えると生と死ってすごく不思議だし、面白いです。
――生命に対する哲学的疑問であり、達観しているというか…。でも、分かります。突然考えることはあります。お金であったり名声であったり、充実した日があったりしても、死んだら自分という存在はどうなるのだろうと、急に怖さが襲ってくるという。
まさにそれですね。生きていても“無”だけども、死んで“無”になることも怖くて仕方ないんです。多分、それが僕に唯一ある作家性なんじゃないかと思います。
――フィクション、ノンフィクションのことですが、地動説を追うのであれば、ガリレオ、コペルニクスらの足跡を追う形もあったと思います。その手法は考えにありませんでしたか?
選択肢としてはなかったですね。そういうものは立派な専門書や論文がある。僕がやる仕事ではまったくない。僕が描きたかったのは歴史そのもの漫画ではなく、思想を落とし込むこと。そして、偽史が描きたかったからです。ウソの中だからこそミスリードも生まれるし、現代への目線も入れられるんですよね。
今の世界でも、このC教に当たるものがたくさんある。
言論の自由がない中国、ロシア、DEIを否定するトランプ、イスラエルを賛美するドイツ。
そして、どこかでフベルト、ラファウ、バデーニ、ヨレンタみたいに、自分の主張を曲げずに異端審問官と闘っている存在が無数にいる。