作者の山本作兵衛は、父親が遠賀川の川舟船頭だったが、1899(明治32)年、作兵衛が数えで8歳のときに鉄道の開通で「飯食い茶碗をたたきわられて」「ヤマに乗りあげた」。
それからは一家でヤマからヤマへと渡り歩く生活で、作兵衛は小学校4年を卒業すると、ツルバシ鍛冶屋の内弟子になった。しかし病気もちの父親が仕事を休みがちなので、先に坑夫になっていた兄の後を追うように坑夫になる。
当時は「先山(さきやま)」「後山(あとやま)」が2人1組で働く形で、15歳で「一人まえのスラ曳き」(後山の仕事)になり、18歳で先山を務めるようになった。
しかし、何度か家を飛び出して、小倉の鉄道工場や八幡製鉄で働いたこともあったという。小倉で生活しているときに、下宿の漢和辞典を借りてノートに書き写し、漢字の読み書きを覚えた。
大正5年に結婚してからも赤坂、神之浦、上三緒、綱分、山内、椋本、飯塚、山内、日鉄中央鉱、山内、赤坂と目まぐるしくヤマを渡り歩き、その後の日鉄稲築で18年を過ごす。そして昭和15年に位登炭鉱に移り、昭和30年の閉山まで働いた。
意外にも、15歳から21歳まで採炭夫として働いたほかは、一時期を除くとほぼ鍛冶工としての炭鉱生活を送っている。残された絵から、てっきりずっと採炭夫をしていた人かと思っていた。当時としてはかなり長寿である92歳まで長生きしたのは、採炭夫をしていた期間が短かったこともあるかもしれない。
炭鉱事務所の夜警をしながら絵を描き始めたのは、昭和33年のこと。それから9年で数百もの絵とノートを残した(2011年世界記憶遺産に登録)。
ここでも語られる女性の悲惨な生活。
それにしても一番ひどかったのは、女坑夫であります。坑内にさがれば後山として、短い腰巻き一つになってスラを曳いたり、セナを担うたり、命がけの重労働です。まっくろになって家に帰れば、炊事、洗濯、乳飲み子の世話など、主婦としての仕事が山ほどまちかまえています。男は昇坑するとすぐに汗と炭塵を洗いおとし、女房のいそがしさをよそに、刺青をむきだして上がり酒。昔のヤマの人はだれもそれを当然のこととして怪しまず、家事の手伝いをするような愛妻家はいませんでした。手伝いどころか、自分は仕事にもさがらず酒とバクチにうつつを抜かし、女房だけに働かせるような男もおりました。
農村の聞き書きでも同様のことが語られていた。そして、これは今でもあまり改善されていない気がする。
むしろ、この年代の男性で、山本作兵衛のような視点で見ることができる人が珍しいのではないだろうか。
以下のサイトで山本作兵衛の炭鉱記録画を見ることができる。
山本作兵衛 炭坑記録画・記録文書 ユネスコ「世界記憶遺産」登録