『神と仏の出逢う国』鎌田東二
伊勢神道
伊勢神宮
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- 内宮
天照大神…皇祖神、日の神信仰 - 外宮
豊受大神…もともと丹波で祀られていた食物神を勧請
- 内宮
外宮神学
外宮の神の神格こそが神々の中の一等根源の神である
祭祀一族である渡会氏が発信したので、渡会神道ともいう。
太陽の徳に対して水徳を重視。
「元・本・源」豊受大神は宇宙根源神である
『古事記』や『日本書記』の古い神々より自分たちの仕える神の方がより根源的であるという思想
吉田神道
吉田兼俱
吉田神道は応仁の乱の頃に、吉田神社の宮司の吉田兼俱が大成した。
吉田兼俱は、京都の吉田山に伊勢神宮から光の玉すなわち内宮の神霊(天照大神)が飛来してきて、終には日本中の延喜式内社三千百三十二座の神々が集まってきたと吹聴し、日本のすべての神々を祀る神殿「大元宮」を作った。
吉田神道には顕教=顕露教、密教=隠幽教(おんゆうきょう)の2種があり、隠幽教は『天元神変神妙経』『地元神通妙教』『人元神力妙教』からなる、「三部の神経」に基づく。
藤原氏の祖先神である天児屋根命が説いたものであり、卜部氏という吉田家の系譜のもとになる氏の神の啓示として伝わってきた教えが吉田神道の一番密教的な教えと主張。
天皇家や足利将軍家に取り入り、神主の免許状を裁可する「神道家元」の役割を果たすようになる。
吉田家という名前、最近どこかで聞いたと思ったら、ニコニコ美術館の「祓-儀礼と思想-」でこの免許状を見たのだった。
企画展「祓-儀礼と思想-」(國學院大學博物館)を巡ろう 進行:橋本麻里【ニコニコ美術館】
江戸時代
山王一実神道…天台系
そのほかの神道流派…儒学系(吉田神道や垂加神道)、国学系の復古神道、皇室系の白川神道
神道や仏教、儒教の習合を批判する形で国学が登場してくる。
本居宣長
『古事記』『源氏物語』の研究、日本的な美意識や精神性を「もののあはれを知る」ととらえた。神道の安心とは「安心なきが安心」。死後については漠然としてイメージで良く、むしろ現世をいかに生きるのかに価値をおいた。
平田篤胤
本居宣長の没後の門人。死後の霊魂研究、霊界探究に重きを置いていた。物の怪やお化けの研究にも取り組んだ。日本神話が世界中の神話の元で、諸外国にあるものは流れ着いたものという日本中心主義思想。水戸学のような尊王攘夷思想と結びついて、ヨーロッパ列強国に抗戦するイデオロギーのよりどころになった。霊界の研究は大本教や民俗学に受け継がれた。
明治時代
- 明治元年、神仏判然令が発令される。神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別
- 明治3年、大教宣布の詔が出され、神道の国教化が目指されるが、挫折
- 明治4年、戸籍法を改正して、宗門人別帳、寺請制度を廃止。神社はすべて「国家の宗祀」であると位置づけられ、神社は宗教ではなく国家の宗祀であると宣言。神官の世襲を廃止し、神社の社格、神官職制を定めた
- 明治5年、修験道を廃止し、天台、真言の二宗に所属させた
- 明治6年、梓巫(あずさみこ)、市子(いちこ)、憑祈祷(よりきとう)、狐下げ(きつねさげ)などを禁止。切支丹禁制の高札を撤去
- 明治7年、医薬を妨害する禁厭(きんよう)、祈祷の取り締まりが命じられる
- 明治39年、神社合祀令が発布される。これは一町村に一社の割合で神社を整理し、地方自治の中心にするという思惑があったが、南方熊楠や柳田國男らが反対運動を起こして中止になった
近代明治期以降の教団仏教の社会的発言はきわめて微弱。