軍艦島と朝鮮人強制連行

「軍艦島の生活<1952/1970>: 住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート」の中の片寄俊秀「軍艦島の生活環境」という章に、ちらっと朝鮮人強制連行に関する記述がある。

炭鉱は開山当初、納屋制度という一種の奴隷制度で成り立っていた。納屋をとりしきる勘番(カンバ)は、前貸制度と暴力で「圧政」をしいた。彼らは甘言を並べて坑夫を誘い、借金でがんじがらめにして、坑夫が一度島に入ると二度と抜け出せないようにした。島から泳いで逃亡(ケツワリ)しようとしても、対岸に監視員がいて長崎の町に出る前につかまえられた。リンチは日常で、納屋頭に逆らうと半殺しの目に遭った。

軍艦島

その納屋制度は次第に外見的には近代的な直轄雇用制に切り替わる。端島では、世帯もち坑夫(小納屋)の直轄化が1916年から開始されたが、単身坑夫(大納屋)は1930年から、全廃は1941年と遅かった。しかしこの直轄化にしても拘禁的、封建的な制度であり、敗戦の時点までは、労働者の搾取体制であることに変わりはなかった

大正中期から「内地人の不足を補充する」目的で朝鮮人を坑内夫として使うようになった。戦争で坑夫が徴兵されて労働力不足が深刻になると、政府は朝鮮人労働者の集団移入に踏み切り、1939年から強制連行が始まった。その結果、最重労働の採炭夫のほとんどが朝鮮人に置きかえられた

片寄は、「関係者はこの問題についてきわめて口が重」く、台風災害で事務所が被害に遭い、「書類は全く残置していない」と記述している。

軍艦島

そして、長崎新聞からの転載という形で姜道時という人物の証言を掲載している。

姜さんは強制連行でまずサハリンに連れていかれ、サハリンから日本の内地への石炭輸送が困難になると、端島に移動させられた。

寮に入れられ1日2交代の重労働。労務係の監視が厳しく、疲れて仕事に出なかったり、家族への手紙に島の実情を書いたりするとすぐ連れて行かれた。労務事務所前の広場で、手を縛られたままの朝鮮人を3人の労務係が交代で軍用の革バンドで殴った。意識を失うと海水を頭から浴びせて地下室に押し込め、翌日から働かせた

軍艦島

姜さんは、林えいだい「死者への手紙 海底炭鉱の朝鮮人坑夫たち」にも登場する。

端島炭鉱は、サハリンの塔路炭鉱と違って炭層が薄く、ガスが特別に多かった。地熱も卸しが下がるほどに高く、それにつれてガスが発生した。炭層を調べるボーリングも、ガスが吹き出して危険だった。海水は天井から雨のように落ちて、褌一つの裸に近い姿で採炭した。切羽によっては涼しいところもあったが、そこは日本人坑夫だけが働いた。

父親が勤労課の外勤だった君野昭さんは、父親が鉄の文鎮で「アイゴーアイゴーと泣きよるのを、狂ったように叩く」のを何回も見たという。

端島炭鉱では入坑した方数(稼働日数)や採炭の実績を見せてもらえなかった。姜さんがそのことについてたずねても「こっちのやることにお前たちはケチをつけるのか、叩き殺してしまうど!そんなに叩かれたかったら勤労までこい。」とすごまれ、再び要求できる雰囲気ではなかった。

軍艦島

季節風が吹く頃になると海が荒れ、朝鮮人寮に行くまでに頭からしぶきを被った。木造の二階建ての寮は、しぶきのために窓を開けることができなかった。灯火管制になっていたので、昼も夜も真っ暗い部屋で過ごした。入坑すると地底の闇、寮でも闇。昇坑して竪坑から歩く間だけ人間に戻った。

端島炭鉱での食事は、死なない程度というか、生きられる程度しか食べさせない。悪臭のする脱脂大豆と玄米、サツマ芋とカボチャが混っていた。それでも食べないと重労働ができないので、口の中に入れてゆっくり嚙み砕いた。

当時、端島の朝鮮人の食料事情は、ほかの強制連行された場所よりも劣悪だった。サハリンの炭鉱から配転で端島に来た人や、端島から長崎の造船所に配転になった人が、食の内容にかなり差があったと証言している。

軍艦島

林えいだいの「消された朝鮮人強制連行の記録」は700ページにも及ぶ大著で、貝島鉱業所、豊州炭坑、三井鉱業所、麻生鉱業所、日炭遠賀鉱業所などの関係者の証言を読むことができる(日本人、朝鮮人半々くらい)。

林えいだい「死者への手紙 海底炭鉱の朝鮮人坑夫たち」「消された朝鮮人強制連行の記録」