『ホモ・サピエンスの宗教史 宗教は人類になにをもたらしたのか』を読む ① ユダヤ教とキリスト教

『ホモ・サピエンスの宗教史 宗教は人類になにをもたらしたのか』(竹沢尚一郎)は人類学の観点から宗教を考察した書。

『宗教の本性 誰が「私」を救うのか』(佐々木閑)はユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』をテキストにしていたカルチャーセンターの講義だったこともあり、ハラリの主張に全面的に同意している感じだが、竹沢尚一郎はハラリに手厳しい。

数万年前の「認知革命」から近現代の科学革命までを一続きに説明しようとする企ては壮大だが、そうであるために、その議論は強引さと飛躍に満ちている。

ハラリは宗教の進化をアニミズム→多神教→一神教というかたちで説明しているが、これは宗教を観念や信念の観点から理解しようとする見方であり、これはプロテスタンティズムとともに近代になって登場したものでしかない。彼の議論は、近代主義的な見方を過去に投影しているという点で、厳密な意味での歴史研究などではなく。著者が想像力と恣意的な引用でつくり上げた架空の物語にすぎないというべきだろう。

世界中の宗教について考察がされているが、もっとも興味深かったのは、ユダヤ教の成立についての章。旧約聖書も新約聖書も、読まなきゃと思いつつ、結局ちゃんと通読してないので、ここで整理できてよかった。

ユダヤ教

古代イスラエルの宗教…農耕や牧畜のサイクルに沿いながら供犠を行い、神に豊穣を祈願

紀元前931年ごろ北にイスラエル王国、南にユダ王国が建国される。
前8世紀後半、イスラエル王国はアッシリアの支配下となり、紀元前722年滅亡。ユダ王国は属国として存続したので、イスラエル王国からの避難民で人口急増、都市が発達し、旧約聖書の整備も進む。
原理主義的な申命記主義者が台頭し、イスラエル王国の腐敗と神からの離反が敗戦の原因だとする一方で、唯一神ヤハウェへの帰依を要求。
前586年バビロニア王国がユダ王国を解体し、国民はバビロニアへ強制移住させられる。
異教徒のなかでユダヤ教徒としてのアイデンティティを守るために、割礼、安息日、食物規制などの実践や規制を強化。モーセ五書もこの時代に大部分が書き直された。

(ユダヤ教の律法を『宗教の本性 誰が「私」を救うのか』は「神にえこひいきしてもらうためには、なんらかの欲求を我慢してみせることで、自分たちがほかの民族とは違う特別な存在であることを神に示す必要があったから」と説明している)

キリスト教

イエス…紀元前4年ごろ北イスラエルのガラリヤで生まれ、紀元後30年ごろローマのユダヤ総督によって処刑される。

ユダヤ教ではらい病患者や罪人は汚れた人間のカテゴリーに入れられ、同席して食事をすることは禁止されていたが、イエスは貧困や病気を抱える人を包摂していく(そのことで遵法主義のパリサイ人など律法を重視するほかのユダヤ人と対立)。
またユダヤ人以外に救いの業を広げた。

ゲルト・タイセンによると、初期の宣教者は「故郷と家族と財産を放棄し、巡回しながら癒しの業をおこないつつイエスの教えを広める説教者にして霊能者」。
→イエスはともかく、どうやって弟子まで霊能者たりえたのか?

パウロは地上の権威や財産を否定したイエスのラジカルさを弱め「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」といった。
この転換が「イエス運動の倫理的急進主義」を「愛の家父長制」に変質させ、そのためキリスト教の影響力を上位階層に広げられるようになった。

キリスト教の矛盾

  • 被傷性に裏打ちされた弱者の共同体の意識を核としながら、帝国の組織を与えられている
  • 世俗の秩序を拒否したイエスの教えに根差しながら、世俗的な制度である国家の秩序維持に利用されている
  • 人間を救うために地上に降りた神の子が、人間によって殺される
  • 一切の具象化を拒否する唯一神を信奉しながら、その子であるイエスを繰り返し具象化する

キリスト教が「2000年後の今日も活力をもって生きられていることの秘訣」はまさにこの「矛盾からなる制度であり教義」にあると著者は結論付けているが、果たしてそうか?