『キジバトの記』『蕨の家』を読む

上野英信という記録者の家を、息子と妻の立場から書いた本。
英信は山口県阿知須町で生まれ、北九州の黒崎で育った。満州の建国大学の後京大に進んだが、故郷に定められた婚約者がいたのに出奔し、炭坑で坑夫として働いた。その体験から炭鉱のルポルタージュを出したことで世に認められる。

『キジバトの記』が妻の晴子、『蕨の家』が息子の朱の著作である。

『キジバトの記』『蕨の家』

晴子の本のタイトルは、家の入口のヒマラヤ杉に代々巣をかけるキジバトからきている。

夫が生きていた間、人の出入りの絶え間なかった門前で、キジバトの存在に気付いた人はほとんどなかった。まして、この家の女房がキジバトの平安にあこがれていたことなど誰も知らない。夫婦は二世というけれど、私には一世をもちこたえるのがやっとのことだった。

やがて私の人間業が終わったら、次の世にはキジバトに生まれ変わりたいと子どものように考えている。

時代もあるだろうが、英信は家では徹底した家父長制をしき、妻の創作活動を禁止し、自分の活動を手伝わせることを当然としていた。

晴子は英信の「古典的」な女性観の理由として、「長州の風土」「専制君主的な父を持つ家庭」「彼を庇護した著名な明治の文人」「旧日本帝国陸軍」「学生時代の恋人」をあげている。

彼は私を自分の好む鋳型に嵌めこもうとして、私が内面に保ってきたもののすべてを否定することから始めた。

いま思い返してもあれは教育ではなく調教である。

声の高さやアクセントの置き方や語尾のおさめ方などに彼一流の好みがあって、従わねば叱られる。

晴子はこんな生活に窒息しそうになりながらも、「どんな時にも彼の仕事に対する信頼と敬意が薄れなかった」ことで「生き延びてこられた」という。

『蕨の家』

上野一家は廃屋になっていた炭鉱長屋に手を入れて住んでいたが、本を読んで訪れる客人が絶えなかった。

「予告なしに訪れる人でもすべて受け入れる、というのが父の方針であった」「料理も女房の体力も尽きることはない、と父は錯覚していたのかもしれない」と朱は客人をもてなす母親の苦労を語っている。

『蕨の家』

上野夫婦の在り方を見ていると、義両親を思い出す。

戦前に育った義父も英信同様、家父長制の権化のような人間で、義母に自分の趣味のお茶とお花を習わせて、一緒に茶道と華道の教室を自宅で開いていた。義父が急死した後、教室は閉じられ、道具も処分したときいた。

本当のところ、義母は両方ともそんなに好きではなかったのかもしれない。義父は義母がやりたいかどうかなど気にする人間ではなかった。はたから見ていると、義父は義母のことを何らかの意思がある存在と思ってないようにしか見えなかった。家族はなによりもまず家長のやりたいことを尊重すべき、という姿勢は英信そっくりだ。

また、私が結婚するにあたって九州から上京してきた両親は、結婚したらこんなことをしてる場合ではないと趣味のものを勝手に処分した。私は大事なものを捨てられて、あわててゴミ捨て場に拾いに行った。たぶん2人とも覚えてないだろう。