「女人禁制の人類学――相撲・穢れ・ジェンダー」

●女性の穢れ観を形成したもの
・仏教思想での女性蔑視
・神祇思想の清浄観
・厄病と穢れ観の結びつき
・陰陽道(禁忌重視)
・儒教
など

●女性の穢れの時代的変化

1) 9世紀後半~
従来の禁忌が法制化…『弘仁式』『貞観式』で産穢、血穢(月経)を明文化
仏教の影響…大乗仏教には女性に対する差別・忌避と穢れ観がある
「女人五障」説
「女人誘惑」説

2) 室町時代後期~
『血盆経』(10世紀ごろの偽経)が女性の生理的出血を罪業と結びつけ、女性のみが堕ちる血の池地獄を説いた
→女性罪業観や不浄観を浸透させ、女性の穢れを「一時的」ではなく「恒常的」なものに変貌させた

3) 江戸時代中期~
民衆の山岳登拝や女性の参詣者が盛んになって禁忌が意識化され、民衆化した
徳川綱吉『服忌令』…死穢や血穢を法的に確定

●現在の女人禁制
・大峯山
表向きの理由「修行で女性を遠ざける必要があるため」→実際は妻帯

大峯山寺

著者の鈴木正崇は、神事など女人禁制のさまざまな事例をあげつつ、「決定権はあくまでも当事者にある」という。

でもそれでいいのかどうか。日本がジェンダー平等から大きく遅れている現状をどう見るか。

権力を握っている側(男性)に都合のいい制度になっているため、当事者任せでは、遅々として変わらない気がする。

「地域の女性だって望んでない」というのは、一見一理あるようで、実はそうではない。彼女たちは、その地域で生きていくために、自分たちにとって不利な価値観を内面化してしまっている場合があるからだ。

北マケドニアの小さな町で、女人禁制の伝統儀式に女性がうっかり飛び入りして起きた騒動を描いた『ペトルーニャに祝福を』という映画がある。飛び入りした女性を厳しくとがめたのは、父親ではなく母親の方だった。

この映画は実話に基づいていて、実際は映画のような救いのあるエンディングではなく、当該の家族は移住する羽目になったそうだ。

大峯山寺 女人結界門

今の仏教界の男尊女卑も、なかなかひどいままだ。

天台宗の尼僧が住職から長期間にわたり性暴力を受けた事件について、先日天台宗務庁が処分を発表したが、驚くほど軽かった。世間の感覚からかけ離れた判断としか言いようがない。

この住職がやったことは普通に犯罪であり、今なんの罪にも問われずに外を歩けているのがおかしい。

千日回峰行を達成した大僧正もこの件に関わっていたが、厳しい修行をしたからといって人間性が素晴らしくなるかどうかには何の関係もない、ということがよくわかる。修行に耐えられたのは、体が丈夫なことの証明にはなるが、それ以上でも、それ以下でもない。スポーツ選手にわりと中身がゴミな人が多いのと一緒。

この大僧正は80代だというから、今さら価値観を改められるはずもないのだろう。