能装束の文様

能は、もともと地方で行われていた田楽、猿楽などの土着的な芸能を、室町時代に観阿弥・世阿弥親子が洗練された芸能として完成させたことに始まります。

能の衣服を「装束」と呼ぶのは、武家の装束を形式の基礎にしているためで、16世紀初めの金春禅鳳の時代に整い始めました。その後、舞衣(まいぎぬ)などの独自の装束も考案され、桃山時代には、曲目によって一定の装束付ができ上がりました。

高級な唐織物は、演能に際して小袖脱ぎなどによって武将などから祝儀として能役者に与えられ、装束として定着していきました。天正頃の「八帖花伝書」では「表着は唐織を本とせり」と記されています。

その後、能は将軍や諸大名の庇護のもとに武家の式学となり、江戸時代に興隆しました。

「枝垂桜に舞楽文様唐織」sidarezakura ni bugaku
「枝垂桜に舞楽文様唐織」
寛政9年-文化10年(1797-1813)宮島奉行を務めた青木猪助が奉納した墨書があります。

有職(ゆうそく)文様

法隆寺や正倉院に伝えられた「上代染織文様」が、平安時代以後、貴族の衣生活に合うように工夫され、和様化したもの。

名物裂系の文様

室町から桃山、江戸時代にかけて、中国(宋~明)から輸入された織りを主とした染織品で、その時代に作られた絹織物(金襴、緞子など)およびインドやペルシャ、東南アジア、ヨーロッパで作られた綿織物(更紗)を名物裂と呼びます。

当時の茶人たちに珍重されたことで、この名がつきました。

初期の能装束は、渡来の裂類をそのまま用いたものも多く見られました。

絵文様

染を中心とした、絵画的な構成を持つ文様のことで、特に近世以後発達したものを指します。