右隻第一・第二扇中下部
豊臣秀吉は、松永久秀の焼き討ちにより焼損した東大寺大仏に代わる大仏をつくろうとしました。
文禄4年(1595年) 大仏殿ほぼ完成。
慶長元年(1596年) 大地震により、開眼前の大仏は大破。
秀吉が死去したあとは、子の秀頼が遺志を継承。
慶長7年(1602年) 工事中に出火し、大仏殿は炎上。
慶長15年(1610年) 再び着工。
慶長17年(1612年) 完成。
大仏は奈良の大仏(五丈三尺、約16m)よりも大きく、高さ六丈三尺(約19m)、大仏殿は棟高十七丈三尺(約49m)、桁行三十丈七尺(約88m)、梁行十九丈二尺(約54m)という壮大なもので、現在、豊国神社が建つ位置にありました。
舟木屏風に描かれているのは、秀吉の死後に再建された方広寺です。
大仏殿が寛政十年(1798年)、雷による火事で焼失するまでは、京随一の観光名所でした。
子どもをおぶった物売り。
建物のなかに、大仏の蓮華座が見えます。
門前で商売する土産物屋(?)
子どもが手を伸ばしているので、子どもが欲しがりそうなもの?
見物客のなかには外国人の姿もあります。
リチャード・コックスがのこした『イギリス商館長日記』には、大仏殿を訪れたときの感想が記されています。
慶長19年(1614年)に完成した梵鐘。
「大ふつかねつきたう」(大仏鐘撞堂)の書き込みがあります。
この梵鐘の銘文にある「君臣豊楽」「国家安康」について徳川家康が異議を唱え、豊臣家と徳川家の争いに発展しました(「方広寺鐘銘事件」)。
作品詳細
- Title:洛中洛外図 舟木本 部分 Folding Screens of Scenes In and Around Kyoto (Funaki Version)
- Artist:岩佐又兵衛 Iwasa Matabei
- Date:17世紀
- Medium:紙本金地著色 六曲一双
- Collection:東京国立博物館