|
|
|
|
上野英信は山口県阿知須町で生まれ、北九州の黒崎で育った。
住んでいたのは「見わたすかぎりぼうぼうと雑草のおい茂っていた湾南の埋立地」で、「東から風が吹けば、八幡製鉄の大小無数の煙突の吐き出す黒煙が、父とおなじく浚渫船の船員や潜水夫やモーターボートの運転士の住む、むさくるしい五軒長屋の路地いっぱいにたちこめ、西から風が吹けば、セメント会社の太い短い煙突が霧雨のように白い粉を降らせていた」。
旧制八幡中学卒業後、満州の建国大学に入学するが、在学中の1943年に学徒招集を受けて入隊。
広島市の軍隊にいるときに被爆。1946年に復員後京大に進んだが中退し、故郷の婚約者を捨てて出奔。
どうして坑夫になったのかについては、「うまく答えることはむつかしい。私自身よくわからないのである(『話の坑口』)」。
少年の頃に炭鉱を見て「なにか得体の知れない闇にひきずりこまれてゆくような感覚」に襲われ、その経験が被爆体験によってよみがえり、「その闇にいざなわれるままに、私は京都を去り。故郷を棄て、夢遊病者のようにふらふらと筑豊炭田の地底へさがって行った(『話の坑口』)」。
そして海老津炭鉱を振り出しに、日炭高松炭鉱、崎戸炭鉱で坑夫として働く。
1953年、身元保証人となって炭鉱を見学させた作家が日本共産党の秘密党員であることが判明し、解雇されてしまう。
上野が炭鉱を追われたのと同じ年に朝鮮戦争が終了し「黒い色をしていればボタまで飛ぶように売れた特需景気が去り、筑豊炭田は深刻な不況に襲われていた」。
坑夫を続けられなった上野は文芸誌『地下戦線』を創刊。1956年に晴子と結婚後、中間市に転居し、隣家に谷川雁と森崎和江も引っ越してきて「九州サークル研究会」が発足する。1958年に会員誌『サークル村』を創刊するが、1年後には福岡市へ移り、「夜も昼も彼にはなく憑かれたような仕事ぶり」でルポルタージュ『追われゆく坑夫たち』を執筆。その福岡での生活を、晴子は「親子三人落人のような生活」と述懐している。
1960年に中小炭鉱の坑夫の悲惨な労働環境をとりあげた『追われゆく坑夫たち』刊行。その年のはじめに土門拳の『筑豊のこどもたち』が出ていたこともあり、炭鉱問題は人々の関心を集め、非常な反響を呼んだ。
『追われゆく坑夫たち』では何人もの坑夫にインタビューしているが、その中の一人、大分県国東半島出身の「Yさん」はなかば騙されるような形で端島へ連れて行かれていた。あてがわれた部屋は窓ひとつない鉄筋コンクリートの部屋で、その部屋の真ん中には床から天井まで貫いく太い鉄棒があった。
「いいか、ここへきたが最後、ノソン(無断の職場離脱)も許さん。ケツワリ(逃亡)も許さん。現場係に対する口返答も許さん。会社が認める公傷以外の欠勤も許さん。万一それに背いたら容赦なくこれに吊るしあげるぞ。それを承知しておけ」と鉄棒をさすりながら勤労係がいいました。
端島の勤労係って、やっぱりこんな感じ。
そして困窮した坑夫の最後の頼みの綱は組合であり、共産党(たまに宗教)。
これは今でも同じだと思うのだが、なぜ日本では共産党は忌嫌われているんですかね?
『追われゆく坑夫たち』に出てくる「M炭鉱を追われたNさん」こと野上吉哉は、上野一家が住んでいた筑豊文庫の発案者であった。閉山後国税局に差し押さえられていた炭住長屋を落札し、集会所をつくろうとしていたところに、上野が協力する形で移り住んだという。
しかし、その集会所兼図書館に、その日その日の稼ぎに追われる大人が寄り付いたのは最初だけで、「マスコミ関係の人や、学生や文化人たちが足繁く訪れるようになるにつれ筑豊文庫は次第に周囲から浮き上がっていった(『キジバトの記』)」。
『上野英信の肖像』によると、1966年の一年間だけで筑豊文庫の来訪者はのべ1573人。その約3分の1が宿泊していくというのだから、連日おさんどんに追われた晴子が大変だったのもよくわかる。




