軍艦島を舞台にしたドラマ「海に眠るダイヤモンド」、最後まで面白く見た。
しかし、難癖をつけるようだが、子分を殺されたからと博多からヤクザ数名が乗り込んできたり、社宅の空き部屋に入り込んで赤ん坊を誘拐したりするのは、当時の端島では不可能な気がする。
島に入るには船に頼るしかないが、連絡船の発着時には外勤が乗降客を見張っていて、不審者は誰何された。島外からの外来客は外勤係に届けなくてはならず、無断で入島する者は即刻島から追い出された。
島の生活は、労働者の“のそんぼ(ずる)”休みを防ぎ、最大限働かせることにフォーカスされていた。社宅は外勤と区長・係員によって管理され、係員は毎日社宅を見て回っていた。何かあると、住民は各住戸のそばにある電話で、社宅管理のための詰所にすぐに通報できるようになっていた。
「画文集 炭鉱(ヤマ)に生きる 地の底の人生記録」(山本作兵衛)によると、第二次世界大戦中の炭鉱は「我らは御国の産業勇士、出征兵士のその分までも頑張れ」「それ出せ、うんと出せ、銃後の務めじゃ、一人まえでは足りないぞ、二人まえも五人まえも十人まえも働け」という掛け声のもと重労働を課され、「明治時代の大納屋そのものの監獄部屋」と化していたという。
苦しまぎれに逃走する者が続出しておりましたが、警戒がきびしくてなかなか成功しません。つかまえられたが最後、むごいものであります。ほかの坑夫へのみせしめにもなるので、特に激しく叩きあげます。まるで太鼓でも叩くように人間を叩いておりました。
このような状況に絶望して、ダイナマイトを抱いて自殺する坑夫すらいた。
「軍艦島と朝鮮人強制連行」にも書いたが、端島で外勤だった父親が、朝鮮人をリンチしているのを見たという証言もある。つまり、当時の炭鉱の管理部門はヤクザ顔負けに怖い存在だった。
たとえ“荒木鉄平”が戦後の採用であっても、外勤があんな「いい人」に務まる職場だったとはとうてい思えない。
「軍艦島の生活<1952/1970>: 住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート」の中で、片寄俊秀は島を訪れたとき数時間歩き回ったが、総務課の職員にずっと後をつけられていたと述懐している。