『沈める寺』を読む

新聞の書評で面白そうだったので、木崎さと子『沈める寺』を読んでみた。

話は最後が急展開すぎて「え?」という感じだったが、北陸にある地方都市の浄土真宗の寺が舞台であることが興味深かった。

登場人物の一人、寺の住職の妻である祐子は、やはり浄土真宗の別の寺で育って嫁いできたのだが、母から厨子に入った観音像を譲られている。しかし、浄土真宗では「弥陀一仏、その阿弥陀様でさえ、本来は像とすべきではなく色も形もないはたらきと理解すべき」と教えられるので、仏像は「像のかたちにしなければ理解できない人々のための“方便”」に過ぎず、「観音像をたいせつにするのはともかく、本気で礼拝するのは間違い」なのだという。

絵や音楽に夢中な息子の将来を案じている祐子は、「人間を超えた力にすがりたくなるのは当然ではないのか」と思い、「ああしてくれ、こうしてくれ、と要求がましい祈願を一切してはならぬ」という「浄土真宗の教えに対して、かるい苛立ちにも似た不審の思い」を抱いている。

「浄土真宗は仏教のどの宗派にもないほど迷信を否定する宗派」なのに、寺を継ぐことを期待されている祐子の息子は、行者の娘で蛇の化身を名乗る怪しげな智香尼に近づいていく。

実家は浄土真宗なのに、知らないことばかりだった。
ちょっと調べてみたら、浄土真宗では、人は亡くなったら供養しなくとも死後すぐに仏になり、悟りに至っている。したがって供養をしなかったら故人の霊がうかばれないなどということはなく、追善供養や先祖供養は必要ない。また、ご先祖がお盆や特定の時期だけ帰ってくるという考えもない。

こちらも「え?」の連続。実家がやってるあれこれって、いったい…?