中村座歌舞伎図屏風(出光美術館)

中村座歌舞伎図屏風(出光美術館)
第2扇

中村座歌舞伎図屏風(出光美術館)
第3扇

中村座歌舞伎図屏風(出光美術館)
第4扇

中村座歌舞伎図屏風(出光美術館)
第5扇

中村座歌舞伎図屏風(出光美術館)

中村座歌舞伎図屏風(出光美術館)

作品詳細

  • Title:中村座歌舞伎図屏風 部分 Crowds before a Kabuki Theatre Called Nakamuraza
  • Date:江戸時代 宝暦~明和期
  • Medium:六曲一双 紙本着色
  • Collection:出光美術館
江戸三座と呼ばれた3つの芝居小屋のうち、もっとも由緒ある中村座は猿若勘三郎が寛永元年(1624)に江戸中橋南地に櫓をあげた。のち慶安4年(1651)に境町に移転した。本図はその堺町中村座の木戸前の光景である。
小屋の正面には贔屓筋から役者に贈った反物・菓子など数々の積物が披露されている。「通旅籠町、大伝馬町若者連中から坂田半五郎、中村松江へ、小田原町若者連中から瀬川菊之丞へ」の貼紙が見える。大名題看板には「不破関屋、名護屋閨、吉例今川状」と読める。『吉例今川状』は元文5年(1740)11月に市村座で初演されており、古浄瑠璃『今川了俊』に発したもので、応仁の乱に取材し、山名久国がお家の横領を謀り、忠臣今川忠秋(今川了俊の子)を退けようとする筋に『不破名古屋』・『出雲阿国』をからめたもの。
役者連名に見える役者の名前のうち初代中村松江は宝暦11年(1761)に里好から改名している。坂田半五郎が二世ならば寛延2年(1749)11月に、瀬川菊之丞が二世ならば宝暦6年(1756)にそれぞれ襲名し、中村中蔵は宝暦10年(1760)に仲蔵と改名している。これらを考え合わせると、この役者たちが同時に同じ小屋に出演することは不可能であることがわかる。つまり本図は特定の時期・場所を描いたのではなく、過去の出来事を重ね合わせて宝暦期から明和期頃の中村座の賑いを絵画化したものと考えられる。下限は“近江のおかね”を演じる尾上松助が宝暦13年(1770)に立役にかわっているので明和7年以前ということになる。
木戸前の雑踏には、着物にそれぞれの紋をつけた役者たちの姿も見える。看板を見上げる者や、思い思いに着飾った女性たちに交じって出前に急ぐ福山かつぎも描かれ、大混雑である。群衆のなかの女性たちの帯は二世瀬川菊之丞(俳名は路考)からおこった“路考結び”と思われ、二世村山平十郎の“平十郎結び”をした人が見えるなど、やはり宝暦期・明和期の風俗である。
人物の表情描写は個性的であるが、浮世絵などさまざまな流派の特徴が交じっており、作者についての判断はむずかしい。
『出光美術館蔵品図録 風俗画』