鈴木春信の手がけた作品には、知識を備えた鑑賞者だけが作品の趣向を理解できる「見立て」と「やつし」の手法がとられたものが多数あります。
ところで「見立て」と「やつし」、どう違うのでしょうか?
Wikipediaの説明は以下のようになっています。
浮世絵と「やつし」
浮世絵には画題の中に「やつし」という語が含まれている作品群がある。他に「略」「風流」と付けられるものもあるが、いずれも和漢の古典を当世風にアレンジした人物画である。
近代の浮世絵に関する研究では、やつしと見立てが混用されることがあるが、本来これらは別の概念である。見立てがあるものを別のものを使って表し、連想によって結びつける表現方法であるのに対し、やつしで表現されるものは常に人物に限られ、姿形や設定が変化していても表現したい人物そのものである。例えば、画題に七小町とあれば、江戸時代の町娘の服装をしていても画中の人物を小野小町と見るのがやつしの表現である。
「『見立絵』に関する疑問」(岩田秀行『江戸文学研究』1993)によると
春信の頃の見立
複数個の事物を、他の統一的概念のそれぞれに「よそへ」「なぞらへ」る操作
春信の頃のやつし
古典的な画題を当世風に描いたもの
「雅」から「俗」への変容
形態的類似を伴うことが多い
「しかし「見立」と「やつし」はまもなく混同され」「春信作品の中にすでに混同される要因が内包されている」(「浮世絵を読む・1 春信」浅野秀剛・吉田伸之 編)というからややこしいのです。
「ボストン美術館浮世絵名品展 鈴木春信」に出展されていた『風流やつし七小町』シリーズの一枚。
風流七小町やつし しみづ Kiyomizu Temple (Shimizu), from the series Seven Komachi in Fashionable Disguise (Fûryû yatsushi nana Komachi, here written Fûryû nana Komachi yatsushi)
図:清水寺・桜花
歌:何をして身をいたつらに帯とけんたきのけしきはかはらぬものを
十六菊の被り物をしている娘が小町。
この一枚だけシリーズのタイトルが違う理由などの考察は、「私説『風流やつし七小町』-春信画に見る絵と文芸との交響-」(加藤好夫)をどうぞ。
こちらの論文によれば、清水寺が舞台なのにわざわざ「しみづ」としたのは、春信が小町を「清水(しみづ)」へ下向させたかったためだそう。