ドイツ表現主義は第一次大戦をはさんで、1905年から25年ごろまで、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンなど、ドイツ各地で展開されました。
この運動は、地理的にも時間的にも広範であるうえに、美術に限らず、文学や音楽・建築・映画などにも波及しました。
ブリュッケ
ブリュッケ(橋)は、1905年、ドレスデンのザクセン工科大学の学生だったキルヒナーらによって結成されました。彼らは機械文明や都市文明に染まらない人間性の回復を目指し、プリミティブな主題と様式を展開しました。
ゴッホやムンク、フォーヴィスムの影響を受け、鋭いフォルムや原色が対比する色面、黒く太い境界線などを特徴としています。
1911年に拠点をベルリンに移すと、しだいに意見が対立し、1913年に解散しました。
青騎士
青騎士(ブラウエ・ライター)は1911年、ミュンヘン新芸術家協会内部の対立から生まれたグループです。カンディンスキーとマルクを中心に2人に共感する画家たちが集まりましたが、ブリュッケのような緊密な会員同士の結びつきはなく、画風も限定されませんでした。
ブリュッケがドイツ人によるローカルな活動であったのに対し、青騎士は全ヨーロッパに影響したグローバルな前衛的芸術グループでした。
カンディンスキーは芸術を自然の模写ではなく、感じたことを深めて色彩や線によって表現するという作家の精神の働きから生まれると考えました。「具体的な対象や主題がなくても色彩と形だけで絵画は独立しうる」とも考え、抽象絵画への道を開きました。
マルクは動物を高貴な精神性と力強い生命力の象徴とみなし、モチーフの形を単純化して描きました。青騎士には参加していないものの、密接な関係のあったヤウレンスキーは抽象化、単純化された線と色彩で「顔」シリーズを制作しました。
青騎士の活動は、第一次大戦のため、約3年で終わります。カンディンスキーはロシアに帰国させられ、マルク、マッケは戦死し、戦闘を経験して精神に障害をきたす者もいました。