カンディンスキー

ワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky/Василий Кандинский)

Vassily-Kandinsky

  • 1910年に水彩による最初の抽象画を描いた抽象絵画の先駆者。カンディンスキーは、抽象絵画は「内的必然性」を表現するための理想的な方法であると考えました。
  • 理論家、教育者でバウハウスなどの教授をつとめました。
  • カンディンスキーは音に色を感じるなど、本来独立している五感がつながっている共感覚の持ち主で、視覚表現に聴覚次元の感覚を喚起させることを意図した作品を制作しました。

生涯

  • 1866年 モスクワの裕福な商家に生まれる。
  • 1871年 両親が離婚し、伯母に育てられる。伯母からドイツ語、ピアノ、チェロを習う。
  • 1886年 モスクワ大学に入学。法律と政治経済を学ぶ。
  • 1892年 モスクワ大学を卒業。従姉妹のアーニャ・シェミキアンと結婚。
  • 1895年 モスクワのクシュヴェレフ印刷工場の美術主任となり、商業デザインを手がける。
  • 1896年 モスクワでの印象派美術展で、モネの『積み藁』を見て強い衝撃を受ける。絵画を勉強するためにミュンヘンに移住し、アントン・アズベの画塾に入る。
  • 1900年 美術アカデミーでフランツ・フォン・シュトゥックに学ぶ。パウル・クレーと知り合う。
  • 1901年 ロルフ・ニクツキーらと前衛芸術家グループ「ファーランクス」を結成。教え子だったガブリエレ・ミュンターと愛人関係になる。ミュンターはのちに、手元にあったカンディンスキーの作品を他の青騎士の仲間の作品とレンバッハハウス市立美術館に寄贈した。
  • 1902年 ベルリンの分離派展に出品。
  • 1904年 パリのサロン・ドートンヌに出品。以後1910年まで毎年作品を送る。
  • 1909年 アレクセイ・フォン・ヤウレンスキーらと新ミュンヘン美術家協会を結成、会長になる。
  • 1910年 「ダイヤのジャック」展に参加。
  • 1911年 「コンポジションⅤ」が第3回ミュンヘン新美術家協会展での展示を拒否され、協会を脱退。フランツ・マルクととも「青騎士」を結成。
  • 1914年 第一次世界大戦が始まり、ドイツ国外へ退去命令が出る。ミュンターと別れてロシアに戻り、モスクワ大学教授となる(~1920年)。ロシア芸術アカデミーを創設。
  • 1917年 ロシア革命が起きる。ニーナ・アンドレイフスカヤと結婚。
  • 1918年 ナルコムプロス(教育人民委員会)の造形芸術部門イゾが発足し、タトリンに求められ参加。
  • 1920年 モスクワにインフク(芸術文化研究所)を設立。
  • 1921年 ドイツに亡命。
  • 1922年 クレーの紹介でヴァルター・グロピウスに招かれ、ワイマールのバウハウスの教官となる。
  • 1925年 バウハウスの移転に伴い、デッサウに移住。
  • 1926年 『点・線から面へ』がバウハウス叢書第9巻として刊行される。
  • 1926年 バウハウスでムソルグスキーの「展覧会の絵」が上演され、舞台美術を担当。
  • 1932年 ナチスの主張により、デッサウ市議会がバウハウス閉校を決定。私立学校として存続を図るバウハウスはベルリンに移転。ミース、カンディンスキーら6教授がベルリンへ移住。
  • 1933年 ナチスからカンディンスキーと社会民主党員ヒルベルザイマーの解雇を条件にバウハウスの存続を認める旨が校長ミース・ファン・デル・ローエに通告されたが、バウハウスはこれを拒否し、閉校。フランスへ亡命。パリ近郊ヌイイ・シェル・セーヌに住む。
  • 1934年 モンドリアン、ミロらと親交をもつ。
  • 1937年 ナチスによる「頽廃芸術展」に作品が展示される。
  • 1944年 78歳で死去。

代表作

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