ミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni)
- レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロとともにルネサンス3大巨匠と称されています。
- 自らを画家ではなく彫刻家と自負し、彫刻のような人物像を描きました。
- 人嫌いかつ傲岸な性格のため、弟子をとらず、作品を一人で制作しました。
生涯
- 1475年 イタリアのフィレンツェ共和国で生まれる。
- 共和国政府の臨時職員だった父は、のちに大理石採石場の経営を始め、石工の一家と住むようになる。
- 1488年 画家ドメニコ・ギルランダイオの工房に入門する。
- 1490-1492年 メディチ家の創設したプラトン・アカデミーに参加して新プラトン主義(ネオプラトニズム)の学者や詩人と交流した。また、ロレンツォ・ディ・メディチの庇護を受け、メディチ家の収集した古代彫刻の模作をした。
- 1496年 ローマに移り、『ピエタ』を制作。イエス・キリストの亡骸を抱いて嘆く聖母マリアは、従来年配の女性で表現されていたが、この像では若い女性である。
- 1499-1501年 フィレンツェに戻り、2人の前任者が投げ出した5mもの巨大な『ダヴィデ像』を完成させ、彫刻家としての名声を確立する。
- 1505年 教皇ユリウス2世の墓碑の建造を依頼され、ローマに移る。
- 1508-1512年 ユリウス2世の依頼によりシスティーナ礼拝堂の天井画を制作する。
- 1513年 ユリウス2世が死去し、ロレンツォ・デ・メディチの次男ジョヴァンニ・デ・メディチがレオ10世となる。レオ10世はメディチ家のための教会であるサン・ロレンツォ大聖堂の建築と彫刻をミケランジェロに依頼。
- 1535年 教皇庁の主任建築家、彫刻家、画家となる。
- 1535年頃 40歳代後半のペスカーラ侯爵夫人ヴィットリア・コロンナと知り合う。ヴィットリアが死去する1547年まで親交を結ぶ。
- 1535-1541年 『最後の審判』を制作。
- 1546年 サン・ピエトロ大聖堂の造営主任になる。
- 1564年 ローマにて死去。フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂に埋葬された。
- 『ピエタ』(1499年サン・ピエトロ大聖堂、ヴァチカン、ローマ)
- 『キリストの埋葬』(1500-1501年頃/ナショナル・ギャラリー、ロンドン)
- 『ダヴィデ像』(1504年/アカデミア美術館、フィレンツェ)
- 『聖家族』(1507年頃/ウフィツィ美術館、フィレンツェ)
- 『システィーナ礼拝堂天井画』(1508-1512年頃/システィーナ礼拝堂、ヴァチカン、ローマ)
- 『瀕死の奴隷』(1513-1515年/ルーヴル美術館、パリ)
- 『モーセ像』(1513-1515年頃/サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ、ローマ)
- 『ヌムール公ジュリーノ・ディ・メディチの墓碑』(1520-1534年 メディチ家礼拝堂、フィレンツェ)
- 『ウルビーノ公ロレンツォ・ディ・メディチの墓碑』(1520-1534年 メディチ家礼拝堂、フィレンツェ)
- 『最後の審判』(1536-1541年/システィーナ礼拝堂、ヴァチカン、ローマ)