クロード・モネ(Claude Monet)
- 印象派の代名詞であり、前半期は印象派のリーダーとして活躍しました。「印象派」という名称は、モネの『印象ー日の出』という作品の題名から、批評家ルイ・ルロワが皮肉を込めて彼らを「印象派」と呼んだことに由来します。
- 後半期、時間とともに刻々とかわる光の状態を描き出そうと、同じモチーフの連作を手がけました。
生涯
- 1840年 パリに生まれる。
- 1845年 一家でル・アーヴルへ移住する。
- 1858年頃 外光派のウジェーヌ・ブーダンと知り合う。ブーダンに誘われて、モネも屋外で制作するようになる。
- 1860年 パリに出てアカデミー・シュイスに通い、ピサロと知り合う。
- 1861年 軍隊に招集され、アルジェリアで兵役につくが、病気になってル・アーヴルに戻る。
- 1862年 パリのグレールのアトリエに入り、バジール、ルノワール、シスレーらと出会う。
- その後、家族から援助を打ち切られて生活は困窮し、バジールや身内で唯一の理解者であった叔母から経済的に助けられながら制作を続ける。
- 1866年 のちに妻となるカミーユ・ドンシューを描いた『カミーユ(緑衣の女性)』がサロンに初入選。
- 1869年 セーヌ河畔の行楽地ラ・グルヌイエールで、ルノワールとともに制作活動をする。
- 1873年 ピサロ、シスレーらと「芸術家、画家、彫刻家、版画家その他による匿名協会」を結成する。
- 1874年 この「匿名協会」の第1回展を開く。これは、後に「第1回印象派展」と呼ばれる。
- 印象派展はその後第8回まで開かれたが、モネはそのうち4回に出品している。第3回展に出したサン=ラザール駅の作品群は、後年『積み藁』『ポプラ並木』『ルーアン大聖堂』などの、同一主題を異なった時間や季節に描く連作につながっていく。
- モネはパトロンだったエルネスト・オシュデ一家と親しくなり、1878年にオシュデが事業に失敗すると、その家族を受け入れて同居を始める。
- 1879年 次男ミシェルを産んでから病に伏していたカミーユが32歳で死去。
- パリとル・アーヴルをつなぐセーヌ川沿いに転居を繰り返し、屋外での制作を続ける。
- 1890年 作品が徐々に売れ始め、ジヴェルニーの家を購入。ここにアリスや子供たちと住み始めてから、庭作りに熱中する。
- 1892年 エルネストが死んでから、すでに10年来生活を共にしていたアリスと入籍。
- 1893年 土地を買い足して睡蓮の池を作り、日本風の庭園をつくる。
- 1899年 『睡蓮』の連作を制作し始める。
- 1926年 86歳で死去。
代表作
- 『カミーユ(緑衣の女性)』(1866年/ブレーメン美術館、ブレーメン)
- 『かささぎ』(1869年/オルセー美術館、パリ)
- 『ラ・グルヌイエール』(1869年/メトロポリタン美術館、ニューヨーク)
- 『印象-日の出』(1872年/マルモッタン美術館、パリ)
- 『アルジャントゥイユのひなげし』(1873年/オルセー美術館、パリ)
- 『散歩、日傘をさす女性』(1875年/ナショナル・ギャラリー、ワシントンD.C.)
- 『ラ・ジャポネーズ』(1875-1876年/ボストン美術館、ボストン)
- 『舟遊び(ノルヴェジエンヌ号で)』(1875年/オルセー美術館、パリ)
- 『サン・ラザール駅』(1877年/オルセー美術館、パリ)
- 『サン・ドニ通り、1878年6月30日の祝日』(1878年/ルーアン美術館、ルーアン)
- 『積みわら、夕陽(積みわら、日没)』(1887年/オルセー美術館、パリ)
- 『エプト川のポプラ並木、白と黄の効果』(1891年/フィラデルフィア美術館、フィラデルフィア)
- 『ルーアン大聖堂、扉口とアルバーヌの鐘塔、充満する陽光』(1893年/オルセー美術館、パリ)
- 『睡蓮の池、バラ色の調和(太鼓橋)』(1900年/オルセー美術館、パリ)
- 『睡蓮』(1914-1917年/マルモッタン美術館、パリ)