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目次

アスノヴァ(新建築協会) – ASNOVA:Association of New Architects – АСНОВА:Ассоциация новых архитекторов

合理主義的美学を基本思想とする建築家のグループ。ニコライ・ラドフスキーとヴフテマスの卒業生、インフクのメンバーらで1923年に結成された。
ヒューゴー・ミュンスターバーグの産業心理学の影響を受け、建築の機能性よりも心理学的側面に重点を置いたが、これは「オサ」(現代建築協会)から非難され、対立した。

アフル(革命ロシア芸術家協会)- AKhRR:The Association of Artists of Revolutionary Russia – АхрР:Ассоциация художников революционной России

1922年、モスクワで開催された「移動派」展がきっかけとなって結成された団体。設立者はアレクサンドル・グリゴリーエフ、パーヴェル・ラジーモフ、エフゲニー・カツマン、ニコライ・コトフ、ワシリー・ジュラヴリョー、ピョートル、キセリス、セルゲイ・マリューチンなど。
1928年、「アフル」(革命芸術家協会、AKhR:Association of Artists of the Revolution、Ахр:Ассоциация художников революции)に改称。11回の展覧会を開催し、その内容は絵画、彫刻、版画をはじめ、装飾芸術、活版印刷術など広範囲であ
った。メンバーは「ソヴィエト共和国の子供たちの生活・主題に沿った絵画、線描、写真、映画撮影技術、活版印刷術、彫刻展」(1929-1930年)「第1回移動展」(1929年)などに参加した。
1932年、他の公式の芸術団体や文学団体とともに解体させられた。

インフク(芸術文化研究所) – Inkhuk:Institute of Artistic Culture – ИНХУК:Институт художественной культуры

1920年、イゾ付属の研究機関としてモスクワに創設された。初代所長はカンディンスキーで、地方に支所があり、ヴィテプスクの代表はマレーヴィチ、ペトログラードの代表はタトリンが務めた。インフクはヴフテマスやレフと密接な関係を維持し、議論の場となった。カンディンスキーの心理的、主観的なアプローチに内部から批判が生じ、カンディンスキーがインフクを去ると、1921年、アレクサンドル・ロトチェンコ、ワルワーラ・ステパーノワ、アレクセイ・ガン、ゲオルギー・ステンベルク、ウラジーミル・ステンベルクらが「構成主義者の第一労働グループ」を組織した。

ウノヴィス(新芸術連盟、新芸術確立者連盟) – UNOVIS:Affirmers of the new art – УНОВИС:Утвердители нового искусства

1920年、マレーヴィチと彼の学生によってヴィテブスク美術学校でつくられたスプレマチズム芸術家の団体。
チャシュニク、コーガン、エル・リシツキー、スエティンらが参加。
1922年、マレーヴィチがペトログラードに移ったため、「ウノヴィス」も1923年にマレーヴィチが指導する芸術文化研究所(インフク、のちのギンフク)に拠点を移した。1926年、ギンフク解散により、活動を終了。

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ヴフテマス(国立高等芸術・技術工房) – VKhUTEMAS:Higher Art and Technical Studios – Вхутемас:Высшие художественно-технические мастерские

1920年、モスクワにあった2つのスヴォマスを統合して創設された。ペトログラードでは美術アカデミー高等学校をもとに1921年に創設。芸術学部と産業学部があり、芸術学部ではグラフィック科、彫刻科、建築科、産業学部は印刷科、陶芸科、テキスタイルデザイン科、木工科、金属加工科が設置された。教育内容や組織はドイツのバウハウスに類似しており、相互に交流もあった。
1922年、ヴフテマスとスティーグリッツ図面技術中央学校が統合・再編されてヴフテインとなり、1930年まで存続した。

オスト(イーゼル画家協会) – OST:the Society of Easel Painters – ОСТ:Общество Станковистов

1924年、「第1回行動的革命美術協会問題提起展」の直後に非公式な団体として発足し、1925年公式に設立された。
会員の大部分は、ヴフテマス(国立高等芸術・技術工房)でダヴィード・シュテーレンベルクとウラジーミル・ファヴォルスキーの下で学んだ学生たちだった。
当時、芸術家は純粋な芸術活動よりも産業の分野で活動すべきという運動やグループが多かった中、それに反対する立場で結成され、この名称がつけられた。
1925-1928年にモスクワで4回の展覧会を開催し、「ソヴィエト共和国の子供たちの生活・主題に沿った絵画、線描、写真、映画撮影技術、活版印刷術、彫刻展」(1929年)と2回の移動展覧会(1929年、1930年)などに参加している。
1931年、過半数のメンバーが「芸術旅団」を設立するために「オスト」を離脱し、その他のメンバーは「十月(芸術労働協会)」に参加した。

オブモフ(青年芸術家同盟) – OBMOKhU:Society of young artists – ОБМОХУ:Общество Молодых Художников

1919年、ヴフテマス(国立高等芸術・技術工房)の生徒たちによって結成されたグループ。メンバーはグレゴリーエフ、ヤクーロフ、レントゥーロフ、ロトチャンコの生徒たちで、イゾの絵画やポスター制作、該当や広場の装飾などを行った。
1921年にアレクサンドラ・エステル、リュボーフ・ポポーワ、アレクサンドル・ロトチェンコ、ワルワーラ・ステパーノワ、アレクサンドル・ヴェスニンの5人ががそれぞれ5つの作品を出店した「5×5=25」展はセンセーショナルを巻き起こした。

オマフ(モスクワ芸術家協会) – OMKh:The Society of Moscow Artists – ОМХ:Общество Московских Художников

1924年に「ダイヤのジャック」のメンバーらで「モスクワ画家協会」が結成された。
1926年に「アフル」(革命ロシア芸術家協会)と連合して「アフル」の展覧会「ソヴィエト社会主義共和国連邦の人民の生活展」に参加。1927年、「モスクワ画家協会」の大部分は「アフル」を脱退し、「オマフ」(モスクワ芸術家協会)を設立するために「マコヴェツ会」の元メンバーと「翼」「ブィチエー(客観的現実協会)」などに加わった。
メンバーはアレクサンドル・ドレヴィン、ワシリー・ロジェストヴェンスキー、アリスタルフ・レントゥーロフ、ナジェージダ・ウダリツォーヴァ、ロベルト・ファリクらがいた。

絵画の道 – The Path of Painting – Путь Живописи

1927年、レフ・ジェギンが創設したグループ。1927年と1930年にモスクワで展覧会を開催。
メンバーにタチアナ・アレクサンドロワ、ピョートル・バビチェフ、ワシリー・グビン、ヴェーラ・ペステリ、イヴァン・ニコラエフツェフ、ウラジーミル・ドミトリエフらがいた。

今日のルボーク – Today’s Lubok – Сегодняшний Лубок

ゴロデーツキーによって組織され、第一次世界大戦中の1914年に3ヶ月間だけ活動した出版社。ルボーク(ロシアの民衆木版画)の伝統を引き継ぎながら、愛国主義・反ドイツのプロパガンダ・ポスターやポストカードを製作した。

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ギンフク(国立芸術文化研究所) – Ginkhuk:State Institute of Artistic Culture – ГИНХУК:Государственный институт художественной культуры

1918年、ペトログラードに創設されたモスクワのインフクと同様の機関。芸術文化博物館から発展して、1925年、国立の機関に格上げされ、5つの学術部門が設置された。
1922年、マレーヴィチが移ってくると、ウノヴィス(新芸術連盟、新芸術確立者連盟)のメンバーもギンフクに活動の場を移した。

グループ13 – Thirteen – Тринадцать

名称は1929年の最初の展覧会に参加した芸術家の人数に由来している。
1929年、1930年、1931年に3回の展覧会を開催した。
他のグループと違ってマニフェストや宣言は発表されず、線描や特定の美学的目標に進む芸術家から成っていた。

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芸術家サークル – Circle of Artists – Круг Художников

1926年、ヴフテマス(国立高等芸術・技術工房)の卒業生を中心に結成されたグループ。
1927年、1928年、1929年、にレニングラード、1930年にキエフで展覧会を開催した。
1930年、「芸術家サークル」は分裂し、一部は「アフル」(革命芸術家協会)や「十月(新芸術労働協会)」に加入した。

芸術世界 – World of art – Мир искусства

1898年に、アレクサンドル・ベヌア、セルゲイ・ディアギレフ、コンスタンチン・ソーモフ、ドミトリー・フィロリフォフ、ヴァルテル・ヌーヴェリ、レフ・バクスト、エフゲニー・ランスリーをメンバーとして結成されたグループ。
ディアギレフの編集による雑誌『芸術世界』を刊行。
1906年までに6回の展覧会を開催し、「自由」で「純粋」な芸術を提唱した。
1910年に再編され、ペトロフ・ヴォートキン、アレクセイ・カリョーフ、ナータン・アリトマン、ウラジーミル・タトリン、マルチロス・サリャーンらが加わり、1927年まで展覧会を開いた。
1920年代、「芸術世界」のメンバーの多くは、「熱色」(1924年結成)、「四芸術協会」(1925年結成)に参加した。

四芸術協会 – The 4 Arts Society – Четыре Искусства

1925年に創立された象徴主義のグループで、名称は組織が建築家、画家、視覚芸術家、彫刻家から成ることに由来している。
「青薔薇」「芸術世界」のメンバーを含む70名以上が所属し、1925-1929年、展覧会を開いた。
1929年-1930年にかけて「ソヴィエト共和国の子供たちの生活・主題に沿った絵画、線描、写真、映画撮影技術、活版印刷術、彫刻展」に出品。ナルコムプロス(教育人民委員会)の視覚芸術部門が開催した2回の移動展覧会にも出品した。

スヴォマス(国立自由芸術工房) – SVOMAS:Free State Art Studios – СВОМАС:Свободные Государственные художественные мастерские

1918年、芸術学校が統合、再編されてできた教育機関。モスクワでは、モスクワ絵画・彫刻・建築学校が第一スヴォマス、ストロガノフ美術産業中央学校が第二スヴォマスとなった。ペトログラードでは芸術アカデミーが廃止されてスヴォマスが設立された。労働者や農民の意識向上が目的だったため、16歳以上で希望する者は無試験で入学できた。
1920年、モスクワの2つのスヴォマスはヴフテマスに統合・改称され、ペトログラードではアカデミーが再設置された。クリューン、ポポーワ、ロトチェンコ、タトリンなど多数のアヴァンギャルド芸術家が教員として参加した。

青年同盟 – Union of Youth – Союз молодежи

1910年、マルコフ、ローザノヴァ、シュコルニクらの主導によって結成され、6回の展覧会を開催した。
1912-1913年に、同名の芸術雑誌を3回発行している。
1913年、未来派グループ「ギレヤ」の文学部門を合併。『ウラジーミル・マヤコフスキー』『太陽の征服』を上演した。
その後「青年同盟」は分裂し、1917年に再生の試みがなされ、「新青年同盟」は「第1回国家自由美術展覧会」に参加。
1921年、タトリン率いる一部の元メンバーが、「芸術新潮流連盟」を創設する。そこにはレーベジェフやラプシンら若手芸術家が加わった。

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ゾルヴェド – ZORVED – ЗОРВЕД

「ゾルヴェド」とはロシア語の「外見」と「知識」の省略語で、ミハイル・マチューシンと彼の生徒たちが考案した独自の知覚システム。色彩の原理とその応用を研究し、1932年「色彩への手引きの書」(「色彩の組み合わせの変化性における規則」)を出版した。この手引書は、1930年代、建築やテキスタイルなどさまざまな分野で利用された。

ダイヤのジャック – Jack of Diamonds – Бубновый валет

1910年、モスクワでラリオーノフによって結成されたグループ。1910-1911年、第1回の「ダイヤのジャック」展のあと、1912年にセザンヌを絶対視するフランス派(レントゥーロフ、コンチャロフスキー、マシコフ、ロベルト・ファリクら)と、プリミティヴィズムな芸術を志向するロシア派(ゴンチャローワ、ラリオーノフら)が対立。ロシア派が脱退して「ロバの尻尾」を結成した。

ナルコムプロス(教育人民委員会) – Narkompros:People’s Commissariat for Education – Наркомпрос: Народный комиссариат просвещения

ロシア革命直後の1917年11月に、アナトリー・ルナチャルスキーを議長として設立され、文化・教育政策を担当した。イゾ(造形芸術部門)、テオ(演劇部門)、ムゾ(音楽部門)など17の下部組織を設置。1929年まで存続した。

ノーシ(新画家協会) – NOZh:New Society of Painters – НОЖ: Новое Общество Живописцев

1922年に発足したグループで、メンバーの多くがタトリン、マレーヴィチ、エクステルらに師事していた。
1922年に展覧会を開催。1924年にメンバーの大半が「ブィチエー(客観的現実協会)」へと移る。

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マコヴェツ会 – Makovetz – Маковец

「マコヴェツ会」の名称は、14世紀ラドネジのセルギイがトロイツェル・セルギェヴァ修道院(現在のザゴールスク修道院兼博物館)を建てた丘の名に由来する。
1921年に結成され、1922-1926年に数回の展覧会を開催し、1922-1923年に5回刊行物を出版している(ニコライ・アセーエフ、コンスタンチン・ボリシャコフ、アレクセイ・レシェトフ、ボリス・パステルナーク、ヴェリミール・フレプニコフらが寄稿)。

レフ(芸術左翼戦線) – Lef:Left Front of the Arts – Леф:Левый фронт искусств

1922年にウラジーミル・マヤコフスキーとオシップ・ブリークを中心に結成された文学団体。1923-1925年に雑誌『レフ』、1927-1928年に『新レフ』を刊行。『レフ』では芸術と革命の関係を追究、構成主義と生産主義の理論と実践を主張した。
『新レフ』ではセルゲイ・トレチャコフとマヤコフスキーが中心となり、ヴァルター・ベンヤミンとベルトルト・ブレヒトの影響を受けて「事実の文学」を掲げた。1929年に解散。

ロスタの窓 – Rosta Window – Окна Роста

ロスタはロシア電報通信社(Российское телеграфное агентство)の略。
ロシア革命後の内戦のニュースを伝え、人々をアジテーションするために、1919-1921年に約1600種類のプロパガンダ・ポスターを制作した。ポスターは主にステンシルで制作され、駅や店の窓に貼られた。
ロスタは1921年、政治教育総局(GPP:The Central Directrate of Political Education Главполитпросвет)に改編された。

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