ポール・セザンヌ(Paul Cezanne)
- 長時間モチーフを眺めてその本質をとらえ、さまざまな視点からの色、形を再構築して描くという、それまでになかった新しい手法を用い、本物のコピーではない絵画という独自の世界をつくり出しました。
- 構図やタッチ、色彩という絵画的な要素に価値があるという考えを成立させ、「現代絵画の父」といわれています。
生涯
- 1839年 フランス南部のエクス・アン・プロヴァンスのブルジョワ家庭に生まれる。父は帽子商で成功した後、銀行を創立した人物で、セザンヌが銀行を継ぐか役人になることを望んでいた。
- 1852年 地元の有名校コレージュ・ブルボンに入学し、のちに作家となるエミール・ゾラと知り合う。
- 1857年 エクスの市立素描学校に通い始める。
- 1858-1861年 エクス大学の法学部に通い、同時に素描の勉強も続ける。
- 画家になる夢を諦められなかったセザンヌは、ゾラの励ましもあり、父が購入した邸宅「ジャ・ド・ブッファン」の居間を飾る父の肖像画などを描いて、パリ行きを認めさせる。
- 1861年 絵の勉強をするためにパリへ行くが、官立の美術学校(エコール・デ・ボザール)に入学できず、画塾(アカデミー・シュイス)に通う。ここで、カミーユ・ピサロらと知り合う。エクスに戻って父の銀行で働く。
- 1862年 再びパリに行き、アカデミー・シュイスに通う。
- 1865年 サロン・ド・パリに応募するが、落選。
- 1869年 パリでのちに妻となるオルタンス・フィケと知り合う。
- 1870年 普仏戦争が始まると、エクスに近いレスタックでオルタンスと暮らし、風景画に専念する。
- 1872年 ピサロのすすめでポントワーズに滞在、その後オヴェール・シェル・オワーズに移る。ピサロから印象派専門の画商ポール・デュラン=リュエルを紹介してもらい、画材商タンギーのところにも出入りするようになる。
- 1874年 第1回印象派展に『首吊りの家』など3点を出品。
- 1877年 第3回印象派展に17点を出品。第1回に続き作品は酷評され、セザンヌはパリを離れてエクスの「ジャ・ド・ブッファン」に戻る。ここでセザンヌは印象派の技法から離れ、見えたものをカンヴァスに描くだけではない絵画表現を目指す。「考えることが必要だ。眼だけでは不十分だ」と語っている。
- 1878年 オルタンスと息子をマルセイユに住まわせ、自らはレスタックで制作に励むが、二人の存在が父に知られ、送金を減らされる。
- 1882年 サロンに初入選。
- 1865年 サロン・ド・パリに応募するが、落選。
- 1886年 長年の友人であったゾラと決別。ゾラの書いた小説「制作」が原因であったといわれている。この年、オルタンスと正式に結婚。父がその数カ月後に亡くなって遺産を相続したため、暮らしは豊かになる。
- 1889年 パリ万国博覧会に出品。
- 1906年 制作中に雨に打たれたことで肺炎になり、死去。
代表作
- 『首吊りの家』(1873年 オルセー美術館、パリ)
- 『モデルヌ・オランピア』(1873-1874年 オルセー美術館、パリ)
- 『三人の浴女たち』(1876-1877年 プティ・パレ大聖堂、パリ)
- 『赤い肘かけ椅子のセザンヌ夫人』(1877年 ボストン美術館)
- 『自画像』(1878-1880年 フィリップス・コレクション、ワシントン)
- 『大きな水浴者』(1885年 ニューヨーク近代美術館)
- 『松の木のあるサント=ヴィクトワール山』(1886-1888年 オルセー美術館、パリ)
- 『マルディ・グラ』(1888年 プーシキン美術館)
- 『赤いチョッキの少年』(1890-1895年 ビュールレ・コレクション)
- 『カード遊びをする二人の男たち』(1893-1896年 オルセー美術館、パリ)
- 『リンゴとオレンジ』(1895-1900年 オルセー美術館、パリ)
- 『大水浴』(1906年 フィラデルフィア美術館)