レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt Harmensz. van Rijn)
- 前期は明暗法を駆使し、「光と影の魔術師」と呼ばれるようなドラマチックな作品を描きました。
- 肖像画家として成功した後に、相次ぐ身内の死や浪費癖による財政的苦難にあえぎました。そんななか、数多くの自画像を含む人間の内面を描く精神性の深い作品を残しました。
生涯
- 1606年 オランダのライデンで、製粉業を営む裕福な家に生まれる。
- 1620年 両親は彼を法律家にしようとライデン大学に進ませるが、画家になるために中退し、ヤーコプ・ファン・スヴァーネンブルフに弟子入りする。
- 1624年 アムステルダムのピーテル・ラストマンに師事。カラヴァッジョのキアロスクーロなどを学ぶ。
- 1631年 アムステルダムの画商・画家のヘンドリック・ファン・アイレンブルフの工房に移る。
- 1632年 集団肖像画『テュルプ博士の解剖学講義』において、それまでの慣習を打ち破り、博士の講義を人々が熱心に聞く様子を臨場感あふれる描写で表現し、一流の肖像画家としての地位を獲得する。
- 1634年 アイレンブルフの親類のサスキアと結婚。サスキアの父はレーワルデン市の市長を務めた資産家で、上流階級とのつながりと多額の持参金を得る。
- 1635年 絵画制作の注文や弟子が増えたため、アイレンブルフのもとを離れて独立する。
- 1639年 大邸宅を購入し(現在のレンブラントハイス美術館)、美術品・骨董品を収集するなどしたため、サスキアの親戚から浪費を非難されている。
- 1641年 息子のティトゥスを生んだサスキアが病に倒れ、翌年亡くなる。その後、家政婦として雇ったヘールトヘ・ディルクスと内縁関係になる。
- 1649年頃 農民の娘ヘンドリッキエ・ストッフェルドホテル・ヤーヘルを新たに雇い、内縁関係になる。
- 1649年 ヘールトヘから婚約不履行で訴えられる。
- 自分の描きたいものにこだわって依頼主の注文に応じなかったり、遅筆だったりしたことが客の不興を買い、徐々に仕事が減っていったのにもかかわらず、浪費癖は収まらずに困窮していく。
- 1656年 事実上破産。
- 1663年 ヘンドリッキェが38歳で死去。
- 1668年 ティトゥスが死去。
- 1669年 63歳で死去。家族の眠るアムステルダム西教会に埋葬される。
代表作
- 『自画像』(1629年 マウリッツハイス美術館、デン・ハーグ)
- 『トゥルプ博士の解剖学講義』(1632年 マウリッツハイス美術館、デン・ハーグ)
- 『フローラに扮したサスキア』(1634年頃/エルミタージュ美術館、サンクトペテルブルク)
- 『キリスト昇架』(1634年頃 アルテ・ピナコテーク、ミュンヘン)
- 『イサクの犠牲』(1635年 エルミタージュ美術館、サンクトペテルブルク)
- 『放蕩息子の酒宴』(1635年頃 ドレスデン国立絵画館、ドレスデン)
- 『ダナエ』(1636年 エルミタージュ美術館、サンクトペテルブルク)
- 『ペリシテ人に目を潰されるサムソン』(1636年 シュテーデル美術研究所、フランクフルト)
- 『トビアスとその家族と別れる天使』(1637年 ルーブル美術館、パリ)
- 『夜警』(1642年 アムステルダム国立美術館、アムステルダム)
- 『バテシバ(バト・シェバ)』(1654年 ルーヴル美術館、パリ)
- 『水浴する女』(1654-1655年 ナショナル・ギャラリー、ロンドン)
- 『自画像』(1657年 スコットランド国立美術館、エディンバラ)
- 『画架の前の自画像』(1660年 ルーヴル美術館、パリ)
- 『パレットと絵筆をもつ自画像』(1661-62年頃/ケンウッド・ハウス、ロンドン)
- 『聖パウロに扮した自画像』(1661年 アムステルダム国立美術館、アムステルダム)
- 『自画像』(1660年代中頃 ウフィッツィ国立美術館、フィレンツェ)
- 『ユダヤの花嫁』(1665年頃 アムステルダム国立美術館、アムステルダム)
- 『放蕩息子の帰宅』(1666-1668年 エルミタージュ美術館、サンクトペテルブルク)
- 『ゼウクシスとしての自画像』(1665-69年頃 ヴァルラフ=リヒャルツ美術館、ケルン)
- 『自画像』(1669年 ナショナル・ギャラリー、ロンドン)
- 『自画像』(1669年 マウリッツハイス美術館、デン・ハーグ)