第一次大戦が終わると、オランダや東欧で前衛的な動きがさかんになってきます。その主要なメディアは、美術作品自体や展覧会というよりも、同人誌的な美術雑誌であり、これを土台にしたネットワークが、1920年代の美術動向を大きく左右することになります。
なかでも注目されたのが1917年にオランダのライデンで創刊された「デ・スティル」でした。「デ・スティル」とは、オランダ語でスタイル(様式)を意味し、この雑誌を発行したドゥースブルフを中心とするグループです。
画家であり、建築家でもあったドゥースブルフは、芸術は建築や都市の一部として社会に存在すべきと考え、美術家と建築家との共同作業による新しい空間の創出を訴えました。
国際的な前衛運動のフォーラムとしての機能も果たしていた「デ・スティル」誌は大きな影響力を持つようになります。この「デ・スティル」の芸術思想において核となったのは、モンドリアンでした。
新造形主義
モンドリアンはまず夕景の画家として評価を得ますが、キュビスムと出会って抽象表現に向かいます。いっぽうで、思想的には神秘主義に傾倒しており、それは水平を女性的、物質的なもの、垂直を男性的、精神的なものとするといった抽象表現に反映されました。
モンドリアンは、垂直線と水平線、赤・青・黄の三原色と無彩色を造形の基本的な構成要素と考え、新造形主義(ネオ・プラクティズム)と命名しました。
要素主義
「デ・スティル」の運動は、平面にとどまらず、現実的な空間に広がりを見せます。ステンドグラスや家具から都市計画にいたるまで、広範な制作が行われました。
1920年代にドゥースブルフが斜線を使う要素主義(エレメンタリスム)をとなえたため、垂直線と水平線のみを主張するモンドリアンと決別し、運動としての求心力は急激に低下します。
とはいえ、「デ・スティル」によって抽象は建築やデザインなどの日常の生活に広まり、今日に至るまで、美術にかかわる人々の刺激となっています。