キュビスムと同じ時期に、イタリアでは未来派が起こりました。1909年2月、詩人マリネッティがフランスの新聞「フィガロ」に掲載した未来派宣言によって、その名は全世界に広まりました。
マスメディアをたくみに利用した点に、この運動の特色が現れています。未来派という名称は、20世紀初頭において、19世紀末の文化・社会の名残を捨て去る新しい響きを持っていました。
未来派は、機械文明のダイナミズムとスピード感を賛美し、それを絵画や芸術に取り入れました。また、愛国主義の立場から、危険を顧みない行動や戦争を肯定しました。
1910年2月に「未来派画家宣言」4月に「未来派絵画技術宣言」が出され、ボッチョーニ、カッラ、バッラ、セヴェリーニが署名します。
最初に取り組んだ課題は、速度の美をどう表すかでした。疾走する馬の脚は4本ではなく20本であると「未来派絵画技術宣言」で主張されたように、対象の連続写真のような動きで描いてダイナミズムを表現しました。
未来派はまた、光にも強い関心を抱き、光によって変化する物体のイメージを分析しようとしました。
その後、未来派はキュビスムの影響を受け、立体未来派と呼ばれる傾向も見せます。
1914年、第一次大戦が起こると、未来派は積極的な参戦をとなえましたが、メンバーを戦争で失い、運動は一時的に頓挫しました。
しかし、マリネッティは、戦後、ムッソリーニのファッショ運動に肩入れするいっぽう、デペーロやプランポリーニらと新たな展開を目指しました。