カジミール・マレーヴィチ(Kazimir Malevich/Казимир Малевич)
- 絵画上の抽象というものを絶対的な極限に至らしめたシュプレマティズムの創始者。
- 「物はそれ自体に幾多の瞬間を含みこんで、その様相も多様である、したがってそれを描いた絵画もまた多様なのである。」(「立体主義からシュプレマティズムへ 新しい絵画のリアリズム」1915年)
- 「線と洗練された色彩の漆のなかですべてが滅びる-無秩序の新しい夜明けのうちに芸術の新しいページに光をあてよう-(中略)-無秩序の旗は我々の自我の旗である。そして自由な風のような我々の知性は、我々が精神の空間のなかにもっている創造的なものを震わせることだろう。」(「新しい境界へ」1918年)
生涯
- 1878年 ポーランド人の両親のもと、キエフ近郊に生まれる。父親は製糖工場を渡り歩く仕事をしており、幼少期を砂糖きび農園のあるウクライナの村々で過ごす。
- 1896年 クルスクに転居。移動派の影響を受けた絵画を描く。
- 1901年 8歳年上のポーランド女性、カジミーラ・ズグレイツと結婚。
- 1904年 モスクワに移る。
- 1906年 フェドール・レールベルグのアトリエで学ぶ。
- 1907年 「モスクワ芸術家連盟」に出品。
- 1909年 ソフィア・ラファロヴィチと再婚。
- 1910年 「ダイヤのジャック」展に参加。
- 1911年 「青年同盟」展に出品。
- 1912年 ネオ・プリミティヴィズムの「ロバの尻尾」展に出品。
- 1913年 キュビズムの影響を受けた作品を「標的」展に出品。オペラ『太陽の征服』の舞台装置をデザイン。
- 1915年 「最初の未来派展ー市街電車Ⅴ」展に参加。最初のシュプレティズム作品を「最後の未来派絵画展-0.10」に出品。
- 1917年 「ロバの尻尾」展に59点出品。
- 1917年 スヴォマス(自由工房)の一つを指導。マヤコフスキーの「ミステリヤ・ブッフ」の舞台装置を担当
- 1918年 ナルコムプロスで活動。
- 1919年 ヴィテプスク美術学校に招聘される。
- 1920年 ウノヴィスを結成。
- 1922年 ペトログラード美術文化学校を指導。ベルリンでの「第1回ロシア美術展」に参加。
- 1923年 ベルリンの美術展がアムステルダムの市立美術館で開催される。ペトログラード絵画文化館の館長に任命される。再婚の妻死去。
- 1924-1925年 絵画文化館を5つの部門を擁するギンフク(国立芸術文化研究所)に改組。
- 1925年 ナターリヤ・マルチェンコと結婚。
- 1927年 大ベルリン美術展の一環として回顧展開催。
- 1935年 レニングラードで死去。弟子のスエチンが棺や墓を黒い正方形で飾った。
代表作
- 『水浴する人』(1911年 アムステルダム市立美術館、アムステルダム)
- 『ライ麦の収穫』(1911年 アムステルダム市立美術館、アムステルダム)
- 『雪の降った朝の村』(1912年 ソロモン・R・グッゲンハイム美術館、ニューヨーク)
- 『モスクワのイギリス人』(1914年 アムステルダム市立美術館、アムステルダム)
- 『黒の正方形』(1914-1915年 トレチャコフ美術館、モスクワ)
- 『シュプレマティスト・コンポジション:白の上の白』(1918年 ニューヨーク近代美術館、ニューヨーク)
- 『農民の頭部』(1929年 ロシア美術館、サンクトペテルブルク)
- 『複雑な予感:黄色のシャツのトルソ』(1933年 ロシア美術館、サンクトペテルブルク)
- 『自画像』(1933年 ロシア美術館、サンクトペテルブルク)