15世紀のブリュージュは、各地の優れた画家たちを呼び寄せました。
ブリュージュ派を率いたヤン・ファン・エイクやクリストゥスも、後継者のメムリンクやダフィットにしても、美術市場を求めてよそから来た画家でした。
ハンス・メムリンクはドイツ出身で、おそらく修行期に、当時のドイツ絵画の主流だったケルン派と接触していました。
メムリンクはその後ブリュッセルに赴き、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの工房にいたと推察されます。ロヒールが没した1464年にはすでにブリュージュにいたらしく、翌年に市民権を得て、半生を過ごしました。
メムリンクは画壇の創始者であるヤンの伝統を引き継いで、明澄な色彩が美しく端麗な聖母画を残しました。
メムリンクは肖像画家としても優れており、バウツの肖像画を発展させて、背景に広大な風景を配した新しい肖像画を試みました。
ヘラルト・ダヴィトは、1460年ごろ北ネーデルラントのアウデワーテルに生まれました。1484年にブリュージュに移住して活動を始め、1501年に画家組合長になりました。
ダヴィトが活躍した15世紀末から16世紀初頭のブリュージュは、ハプスブルグ家のマクシミリアンと軋轢が生じ、衰退の兆しを見せていました。
ダヴィトの「キリストの洗礼の祭壇画」の風景描写からは、風景画を推進したハールレム派とのかかわりがうかがえます。
その一方で、天使の豪華な服装や草花の細部描写は、ヤン・ファン・エイク以来のフランドルの伝統に依拠しています。
そしたオランダ的要素とフランドル的要素の混交が、ダヴィトの絵画の特性です。
ダヴィトの聖母画は、メムリンクよりもいっそう平明な親しみやすさを持っており、こうした宗教主題の世俗化には、イタリア・ルネサンスとの関連が見られます。