ポール・ゴーギャン(Eugène Henri Paul Gauguin)
- ゴーギャンは自分の作品を「象徴主義的総合主義」と呼びました。線や色などの絵画の要素を総合して、画家の意図を表現するというものです。
- ゴーギャンは「あまり自然に即して描いてはいけない。芸術とはひとつの抽象なのだ」という言葉を残しています。
生涯
- 1848年 パリで生まれたが、1歳でペルーの首都リマに移住する。共和系の新聞「ナシオナル」の記者だった父クロヴィスが二月革命後の政府による弾圧から逃れるための亡命だったが、父は移住後まもなく死去。
- 幼い頃のリマでの思い出は、生涯ゴーギャンに影響を与え続けた。ゴーギャンの母方はペルーの王族の血を引く裕福な家系で、ゴーギャン母子はリマで何不自由ない生活を送る。
- 1855年 7歳の時、フランスに帰国。
- 1865年 17歳のときに航海士となって南米やインドを訪れる。
- 1868-1871年 普仏戦争に従軍する。
- 1871年 23歳で株式仲買人として働くようになる。
- 1873年 25歳でデンマーク人のメットと結婚する。
- 趣味のための画塾に通いはじめる。
- 1879年 知り合ったピサロのすすめで第4回印象派展に出品。
- 1883年 大恐慌のあおりで株式仲買人の職を失ったのを機に、35歳で画家になることを決意する。
- 1885年 絵が売れず、困窮したゴーギャン一家は、メットの実家を頼ってデンマークに移住するが、妻の親類とそりが合わなかったゴーギャンはすぐに単身フランスに戻る。
- 1886年 画家仲間のすすめでブルターニュのポン・タヴェンに住む。これ以降、放浪の中で数回に渡ってポン・タヴェンに滞在した。1888年の滞在時には画家たちのリーダー的存在になり、鮮やかな色を輪郭線で囲む手法はのちのポン・タヴェン派、ナビ派に受け継がれた。
- 1888年、ゴッホに誘われてアルルで共同生活をするが、わずか2ヶ月で破綻。
- 1891年、タヒチへ渡り、以後の人生のほとんどをタヒチで過ごす。ほかのフランス人のように首都パペーテに住むことはせず、農村マタイエアで現地の13歳の娘テフラと同棲する。
- 1893年 病気や貧困のために帰国。叔父の遺産が入って金銭的に余裕ができ、パリでアトリエを構えるが、タヒチの絵はまったく売れなかった。
- 1895年 タヒチへ再渡航する。
- 1897年 遺書代わりの『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』を描いて自殺を試みるが、未遂に終わる。
- 1901年 さらに辺鄙なマルキーズ諸島ヒバ・オア島に渡り、「快楽の家」と名づけた小屋に住む。
- 1903年 ヒバ・オア島で死去。54歳。イーゼルには雪のブルターニュを描いた絵が残されていた。
代表作
- 『自画像(レ・ミゼラブル)』(1888年 ゴッホ美術館、アムステルダム)
- 『説教の後の幻影』(1888年 スコットランド国立美術館、エディンバラ)
- 『光輪のある自画像』(1889年 ナショナル・ギャラリー、ワシントン)
- 『美しきアンジェール』(1889年 オルセー美術館、パリ)
- 『黄色いキリスト』(1889年 オールブライト=ノックス美術館、バッファロー)
- 『イア・オラナ・マリア(マリアを拝む)』(1891年 メトロポリタン美術館、ニューヨーク)
- 『ヴァイルマティ』(1897年 オルセー美術館、パリ)
- 『われわれは何処から来たのか?われわれは何者であるのか?われわれは何処へ行かんとしているのか?』(1897年 ボストン美術館、ボストン)