第一次大戦後、フランスは愛国心をさらに称揚するとともに、人間性の回復、西欧および自国の芸術の伝統復興をとなえました。
ルーヴル美術館の再開に続き、古典的伝統を代表する絵画がもてはやされ、作品の主題は、祖国の風景や伝統的な人物像、女性ヌードなどが多くなりました。
ブラックやレジェのように戦場に赴く者もいて、パリの前衛芸術の原動力になっていた芸術家たちのコミュニティはいったん解体します。
ピカソやドランをはじめとする戦前のフォーヴやキュビストたちも、戦後、より具象性を増した人物像や風景を描くようになりました。このような変化は、「秩序への回帰」と見ることができます。
大戦前にもまして、パリには多くの外国人芸術家が集まりました。エコール・ド・パリ(パリ派)の名で知られる彼らの一部は、独自のスタイルを持った具象絵画を生みました。
イタリア人のモディリアーニは、ブランクーシと交友し彫刻を始めましたが、体力がないため断念し、絵画に方向転換します。彫刻とセザンヌの影響から構築性を重視した形態に、叙情性を加味した人物画を得意としました。
ポーランドで美術を学んだあと、1910年にパリに来たキスリングは、1919年のドルエ画廊の展覧会で成功し、この時代の流行画家の一人になります。哀愁をたたえたエロティックな人物や裸婦を、艶かしい質感と輝きで描きました。
1913年に来た藤田嗣治にとって、パリは衝撃的でした。彼は日本での教育をすぐに捨てますが、日本人としてのこだわりは持っていました。数年後、日本絵画のようなのような繊細さとすべすべとした白い肌のマチエールで名を成します。
母のヴァラドンも画家だったユトリロは、17歳でアルコール中毒のため入院し、その治療として絵筆を持たされます。彼は、悲しみと憂愁が漂うパリの街角を、白を基調とする色調で描きました。
リトアニア出身のスーチンは、1913年にパリに来てモンパルナスに住み着きます。野人と呼ばれていましたが、アメリカのコレクターが作品を大量に購入してくれたことで、有名画家になります。激しいタッチとねじ曲げられたようにゆがんだフォルムで、強い表現性を感じさせる人物や風景、静物を描きました。
パスキンは「真珠の光沢」と呼ばれる震えるような微妙な輝きを放つ画面で、けだるくエロチックな世界をつくり上げました。
ローランサンは、アポリネールやピカソらと交友しても、キュビスムの影響を受けず、独特の抒情的なスタイルを確立しました。
シャガールは戦前からパリにいて、キュビスムの影響を受けた作品を制作していました。一時ロシアに戻りますが、社会主義リアリズムを嫌い、1923年再びパリに戻ります。彼は故郷の村のロシア系ユダヤ人文化に根ざした幻想的な絵画を描きました。