エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch)
- 幼少期に身近に「死」を実感し、自身も病弱で絶えず生きることに不安を抱き続けました。「病と狂気と死は、私の揺り籠の上を舞い、その後も私を追い続けた黒い天使であった」と晩年に語っています。
- 風景や人物など描くものに恋愛、性の悩み、不安、死など内面の強烈な感情を託して表現しました。これらの作品を「人生のフリーズ」と呼びました。
- 病弱なムンクは、結婚に否定的で、生涯独身でしたが、数多くの女性と交際し、愛や性にまつわる作品を数多く残しました。そのため、エロス(愛)とタナトス(死)の画家といわれます。
生涯
- 1863年 ノルウェー南部のリョーテンに軍医の長男として生まれる。父の家系はノルウェーで軍人や司教や詩人を輩出している名門だった。
- 1864年 一家でクリスチャニア(現オスロ)に移り住む。父が俸給を補うために労働者階級の地域に医院を開業する。
- 1868年 5歳のときに母ラウラが結核で33歳で亡くなる。母の死後、父が神経質になり、子どもにも厳格になる。母の妹カーレンが母親代わりになる。
- 1877年 14歳のとき姉ソフィエが結核で15歳で亡くなる。
- 1880年 工業学校を退学し、王立画学校(現・国立工芸美術産業学校)の夜間コースに入学する。
- 1882年 画家クリスチャン・クローグの指導を受ける。
- 1883年 親類の画家フリッツ・タウロウが主催するモードゥム野外アカデミーに参加したのを機に、「クリスチャニア・ボエーム」という、アナーキズムと自由恋愛をうたう前衛作家・芸術家グループのメンバーになる。
- 1885年 友人の画家エイヨルフ・ソートとともにパリに行く。
- 1886年 1年近くかけて描き上げた『病める子』を官立秋季展に出展するが、斬新な技法が批評家から酷評される。
- 1889-1892年 パリで奨学生として学び、パリ世紀末の画風に触発される。「本を読む男や編み物をする女のいる室内など、もはや描いてはならないのだ。これからは、息づき、感じ、悩み、愛する人びとを描くのだ」と宣言する。
- 1892年 ベルリン芸術家協会で作品展を開くが、数日で中止に追い込まれた。一方、彼を擁護する動きもあり、のちに「ベルリン・スキャンダル」と呼ばれるような騒動になる。
- このことで名前が国際的に知られ、ヨーロッパ各国で巡回個展を開く前衛画壇の寵児となる。
- 放浪時代、ダグニー・ユールと知り合い、四角関係になる。彼女はポーランド人作家スタニスラフ・プシビシェフスキーと結婚後も奔放な行動を改めず、1901年、愛人にピストルで撃たれて死んでしまう。
- 1894年 妹ラウラ・カトリーネが精神分裂病になる。
- 1895年 医者である弟ペーテル・アンドレアースが、結婚して6ヵ月で死ぬ。
- 1897年 オスロのブルジョワの令嬢マティルデ・ラーセン(愛称トゥラ)と出会う。
- 1902年 トゥラとのいさかいで銃が暴発。左手中指の関節を失う。
- 1903年 ヴァイオリニストのエヴァ・ムドッチと交際をはじめる。
- 1908年 神経症のため入院し、10ヶ月の療養生活を送った後は放浪生活をやめ、ノルウェーに定住した。
- 1937年 ナチス・ドイツによって退廃芸術の烙印を押される。
- 1944年 80歳で死去。自身が所有していた2万点あまりの絵画はオスロ市に寄贈された。
代表作
- 『病める子』(1885-1886年 オスロ国立美術館、オスロ)
- 『メランコリー』(1892-1893年 オスロ国立美術館、オスロ)
- 『叫び』(1893年 オスロ国立美術館、オスロ)
- 『ダグニー・ユールの肖像』(1893年 ムンク美術館、オスロ)
- 『マドンナ』(1894-1895年 ムンク美術館、オスロ)
- 『思春期』(1895年 オスロ国立美術館、オスロ)
- 『生のダンス』(1899-1900年 オスロ国立美術館、オスロ)
- 『星月夜』(1923-1924年 ムンク美術館、オスロ)