ロシア・アヴァンギャルド

ロシア・アヴァンギャルド

近代化をすすめるロシアでは、20世紀を迎えると、フランスを中心とする西欧の近代美術を積極的に受け入れようとする動きが活発になります。

革命期と平行した、この1910年代~20年代にかけての急進的な美術運動をロシア・アヴァンギャルドと呼びます。

ロシアには、西欧の近代美術を受け入れる動向としてディアギレフらの芸術世界派があり、彼らの出版物や展覧会に、西欧美術が少しずつ紹介されました。

ロシア未来派

はじめにロシア美術の急進的な動向を率いたのは、ラリオーノフと妻のゴンチャローワです。ラリオーノフは、ロシアの農民に流布した安価な木版画であるルボークに、ゴンチャローワは宗教画であるイコンに影響を受けました。

ラリオーノフ「秋」

ラリオーノフは1913年、イタリア未来派によるスピードの表現と光への関心を掘り下げて、光線主義(ルチズム)を発表します。これは、物体に反射した光を描くことを追求したもので、ロシアにおける抽象表現の先駆となりました。

ラリオーノフたちの活動は、のちに革命期の新しい美術をつくるマレーヴィチとタトリンに受け継がれます。

シュプレマティズム

マレーヴィチは1915年、ペトログラードでの「0.10」展で一連の無対象絵画を発表します。これらの絵画は、現実を対象としていない幾何学的な単純図形で構成されています。

純粋な芸術的感覚を感じるためには、形は形として、色は色として純粋に存在しなければなりません。そのためには、目に見える現実、対象を捨て去らなければならないとマレーヴィチは考えました。

彼はこの抽象絵画を、現実を超えた究極の表現という意味で「シュプレマティズム(至高主義)」と名づけました。

マレーヴィチ「シュプレマティズム」

その後、マレーヴィチは白地に白の図形を配した連作を制作し、ついに何も描かれていない画布を展示するにいたりますが、そこから具象に戻っていきます。

構成主義

1917年のロシア革命が起きると、美術家の多くは革命政権を支持し、革命家の肖像彫刻、大衆を動員したプロパガンダ劇の舞台装置など、煽動宣伝にかかわる仕事を手がけました。

革命で誕生した社会主義国家ソビエトでは、生産主義のもと、美術にも実用性が主張され、社会に役に立つもの、生産性のあるものが求められるようになります。

構成主義とは、1910~1920年代にロシアで展開された、造形活動と生活全般にわたるデザインを機能的に整えていく芸術運動で、タトリンが鉄板や木片などを組み合わせレリーフを「構成(コンストラクション)」と呼んだことに由来します。

その主張はヨーロッパにも波及し、国際的な影響を与えました。

1920年には国家の指導のもとインフク(芸術文化研究所)やヴフテマス(国立高等芸術工房)がつくられ、構成主義者たちは、家具、食器、衣服、建築、舞台芸術やポスターなどで斬新な表現を生み出していきます。

リシツキー「赤い楔で白を打て」

タトリンは、芸術と科学技術の調和を目指し「第三インターナショナル記念塔」を設計します。地上400メートルの螺旋状の高層建築は、実現されることはありませんでしたが、その模型はロシア革命を象徴する作品として引用されました。

しかしスターリンの独裁が始まると、芸術団体は解散させられ、ロシア・アヴァンギャルドは形式主義として弾劾されます。そしてその後長く封印されることになります。

分析主義