キュビスム

キュビスム

色の解放の次に、形の解放であるキュビスムが起こります。ピカソとブラックによって始まったこの運動は、強い感情を表現しようとするフォーヴィスムなどの表現主義的な考え方と違って、形を論理的に解放しました。

ピカソが1907年に制作した「アヴィニョンの娘たち」では、対象は幾何学的で単純な形態に還元され、遠近図法を使わない奥行きの浅い絵画空間で構成されています。

キュビスムという名は、ブラックの風景「レスタックの家」が小さいキューヴ(立法体)の集まりに見えたことからつけられました。ブラックは「自然を円錐、球、円筒によって扱う」というセザンヌの理論をもとに、自然を単純な形態に還元していったのです。

1910-11年、ピカソとブラックは、三次元の空間にある対象を面によって解体し、基本的な線と緑・褐色・グレーの濃淡とともに二次元の画面上に再構成しました。この時期の作品は分析的キュビスムと呼ばれています。しかし、対象を解体しすぎたために絵は判読不可能になっていきます。その後、画面に新聞紙やラベルといった伝統的な絵の素材とは異なる現実のオブジェを貼り付けるパピエ・コレの手法が登場し、総合的キュビスムに移行します。

1911年のアンデパンダン展にはレジェ、ドローネー、デュシャン、ピカビアなどがキュビスム作品を展示し、大反響を呼びました。そのときの仲間が中心になってピュトー・グループを結成し、翌年にセクシオン・ドール(黄金分割)展を開きます。

1912年のサロン・ドートンヌでは、彫刻家のデュシャン=ヴィヨン、装飾家のアンドレ・マール、画家のラ・フレネイやローランサンらが建築部分と内装部分を制作し、メッツアンジェやレジェらの絵画が飾られた室内モデル「メゾン・キュビスト」が出品されました。

キュビスムは、運動のダイナミズムや機械・スポーツといった現代性への関心も強く、ドローネーはエッフェル塔やフットボールを主題にしました。彼は新印象主義の影響を経た後、キュビスムによる形態の破壊を進めました。

詩人のアポリネールは、分析的キュビスムに色彩を加えたドローネーの芸術を「オルフィスム」と命名しました。

第一次大戦でブラックは戦地へ行き、ピカソも1916年にはキュビスムから離れますが、キュビスムは未来派、構成主義、ロシア・アヴァンギャルド、ピュリスムなどさまざまな運動へ引き継がれていきます。

オルフィスム