フランシスコ・デ・ゴヤ(Francisco de Goya)
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  • ゴヤは、あらゆる近代絵画の先駆者と評されています。
  • ロココ風の絵画で名声を得て宮廷画家となりますが、聴力を失ってからは、画風が批判精神と洞察力に富んだものに変わり、戦争の悲惨さや、人間の暗闇にひそむ狂気や残酷さを描いた作品を残しました。
  • 幻想性に満ちた独創的な作品は、フランスのロマン派をはじめ、後世の画家に大きな影響を与えました。

Biography
  • 1746年 アラゴン地方のフエンデトートに生まれる。父はバスクをルーツに持つ伝統工芸の金箔師、母は地方郷士の出身であった。
  • 1759年13歳のときにサラゴサの晩期バロックの画家ホセ・ルサーンの工房に入門し、フランシスコ・バイェウの弟ラモンとともに修行する。
  • 17歳と20歳のときマドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーの奨学生試験を受けるが2度とも失敗する。
  • 1769-1771年 自費でイタリアに遊学する。
  • 1773年 バイェウの妹ホセファと結婚。
  • 1775年 マドリードに移り、宮廷画家となっていたバイェウの推薦を受けて王立タペストリー工場のための原画(カルトン)を16年間にわたって60点以上制作する。
  • カルトンでは、当時の流行を反映して、マホとマハ(粋な男女)、闘牛士、辻音楽士、農民など庶民的な主題を数多く手がけ、写実的な描写や明るい色彩が評価される。
  • 肖像画家としても次第に注文を受けるようになり、オスーナ公爵家に気に入られる。
  • 1786年 40歳のときに国王カルロス3世の王付き画家になる。
  • 1789年 カルロス3世の死後、新国王カルロス4世のもとで宮廷画家に昇進し、裕福な生活をするようになる。
  • 1792年 重病で聴力を失ったことが転機となり、注文によらない制作を開始する。
  • 1799年 あらゆる階層の人々を痛烈に諷刺した版画集『ロス・カプリーチョス(気まぐれ)』を制作。
  • 1799年 53歳にして首席宮廷画家となるが、『カルロス4世の家族』では王家の人々を冷徹に美化することなく描き、以降王家の肖像からは遠ざかる。
  • 1807年、フランス軍の進軍により、ナポレオンの兄ジョゼフがスペイン王ホセ1世となる。
  • 以後6年にわたった戦争を主題に、ゴヤは版画集『戦争の惨禍』と『1808年5月2日:エジプト人親衛隊との戦闘』『1808年5月3日:プリンシペ・ピオの丘での銃殺』を制作する。
  • 1819年 のちに「聾者の家」と呼ばれる別荘をマドリード郊外に購入して、妻の死後一緒に暮らしていたレオカディア・ソリーリャとその娘ロサリオと移り住む。
  • 1820年 リエゴ将軍が自由主義革命を起こすが、3年後再び侵入したフランス軍により政権は崩壊し、フェルナンド7世が復位する。「聾者の家」の壁画「黒い絵」は、このような不安定な時代に描かれていったと思われる。
  • 1824年 自由主義者への弾圧が原因で、病気療養を口実にフランスに移住する。
  • 1828年 82歳でボルドーで死去。
代表作
  • 『日傘』(1777年頃/プラド美術館、マドリード)
  • 『オスーナ公爵夫妻とその子供たち』(1788年/プラド美術館、マドリード)
  • 『黒衣のアルバ女公爵』(1797年/アメリカ・ヒスパニック協会、ニューヨーク)
  • 『裸のマハ』(1798-1800年頃/プラド美術館、マドリード)
  • 『着衣のマハ』(1798-1803年頃/プラド美術館、マドリード)
  • 『カルロス4世の家族』(1800-1801年頃/プラド美術館、マドリード)
  • 『1808年5月2日:エジプト人親衛隊との戦闘』(1814年頃/プラド美術館、マドリード)
  • 『1808年5月3日:プリンシペ・ピオの丘での銃殺』(1814年頃/プラド美術館、マドリード)
  • 『わが子を食らうサトゥルヌス(「黒い絵」より)』(1820-23年頃/プラド美術館、マドリード)
  • 『砂に埋もれる犬(「黒い絵」より)』(1820-23年頃/プラド美術館、マドリード)
  • 『サン・イシードロへの巡礼(「黒い絵」より)』(1821-23年頃/プラド美術館、マドリード)

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